『 日々新たに生きる 』

2018年8月12日(日)
エフェソ4:17-32

8月7-8日に行なわれた『キング牧師研究会』の合宿で、「差別はいけない」という認識を持つ人の本音の部分に根付いた拭いようのない差別性といったことが話題になった。「差別をしてはいけない」と認識においてはわきまえている人であっても、身近な生活習慣の中では差別的な行動を取ってしまう(例えばリベラルな白人の女性が「入院時の担当医は黒人じゃない方がいい」と発言、等)という問題だ。

聞きながら、人間の心の中から差別意識を無くすことは難しいと思わされた。大切なのは、「自分は差別などしない」と主張することではなく、自分の無意識の差別性に気付けるか、そしてそれに気付いたならそれを行動に現わすことのないよう抑制することができるか、ということのようにも思う。

今日のパウロの発言(記述)の中にも、気になる点がある。パウロはイエス・キリストに出会い信仰に導き入れられて新しい生き方を知った喜びを「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る」という言葉で表現する。しかしその文脈で「異邦人は愚かで、知性は暗く、無知で放縦で、ふしだらである」と記している。ここには異邦人に対するネガティブな評価が満載である。

パウロは異邦人伝道に生涯をささげた伝道者である。「異邦人が救いを得るためには、まず割礼を受けるべきである」という保守派の主張に真っ向から反対し、「異邦人は異邦人のままで救われる」と述べた。この見識からキリスト教の世界宣教が始まったとも言えると思う。

しかしそのパウロにして、心の中には異邦人に対する本音のようなものがあったのかも知れない。そんな部分がこの発言(記述)ににじみ出てしまっているのではないか。そして、私たちにも同じような部分があるのではないか… そんなふりかえりを大切にしたい。

けれどもそういう部分を突き抜けて、パウロの宣べるメッセージは私たちに希望を抱かせる。彼は言う「キリストに出会った私たちは、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身につけたのだ」。すなわち私たちは変わることができる、そのように神によって招かれているということだ。

かつてのパウロは、それこそ異邦人をあからさまに見下す人だった。しかしその差別主義者が、異質な他者を大切に受け入れる人へと変えられる。イエスを見捨てた弱虫の弟子たちが、命がけで伝道する者へと変えられる。間違っても、失敗してももう一度やり直すことができる… それが新しい人を着るということ、日々新たに生きることである。

『動的平衡』の福岡伸一氏によると、タンパク質でできた人間の身体は、分子レベルでは数ヶ月で入れ替わるという。移り変わるモノや出来事に無常観(もののあはれ)を見出したのは『方丈記』(鴨長明)である。しかし私たちはそこに希望を見たいと思う。移り変わる世の流れの中を、イエス・キリストの教えに導かれて、喜びをもって日々新たに生きる者となろう。