『 他者と自分を響かせる 』

2018年9月2日(日)音楽礼拝
第一コリント 12:20-27

今日はハンドベルの演奏もある礼拝。ハンドベルは教会で生まれた楽器である。タワーベルの練習用に作られ、その後独自の発展を遂げていった。教会生まれというだけでなく、この楽器の特性を考える時、これは極めて教会的な楽器であると言えると思う。

ハンドベルはひとり2~4個のベルを受け持ち、多人数でひとつの楽器になって演奏する、アンサンブル重視のリズム楽器である。リズム感さえ養えば、あとは特別な技術や肺活量が要るわけではない。「誰でもできる/誰でも来れる」― 教会的な楽器と思う第一のポイントである。

実際の演奏に際しては、ひとつの曲を複数の人間で分け持つのであるから、互いの音を聞くことが大切だ。しかし、実際に演奏してみると分かるのだが「聞きすぎてもいけない」のである。隣の音を「待って」打ったのではタイミングが遅れてしまう。また「ひとりがコケたら、みんなコケた」ということが起こってしまう。メロディラインをひとつの「流れ」と受けてとめて、周囲に構わず自分の音を打つことも大切なのだ。他者と協力し、相手の音を聞きながら、しっかり自己主張もする。どこか教会の人間関係に似ている。「教会的な楽器・その2」である。

もうひとつ。それはハンドベルの音の特質だ。倍音に富んだハンドベルの音は、不協和音が気持ちよく響く。それでハンドベルの作曲者はジャズの和声を多用する。しかも音の重なりを多くしても、互いの音が邪魔にならない。他の楽器では「響きの不思議さ・不安定さ」がある種のスパイスの効果を果たすのに対して、ハンドベルではむしろそれがシロップのように甘く響き合う。音の中に異質な存在が混ざり込んで、しかしそれが互いを遠ざけるのではなくむしろ結び合わせるように作用する。教会もそういうところでありたいと願っている。

聖書が示す理想の人間社会 =「人と人とが共に生きる世界」とは、みんなが同じ色・同じ顔・同じ考えになることではない。それぞれみんな違っていて、その違いを生かし合いながら絶妙なハーモニーを響かせるところに生まれるものである。その「共に生きる関係」の大切さを示すのが、今日の箇所、パウロの語る「キリストのからだ」のたとえである。みんなちがっていて、いい。みんな違うから豊かなんだ…。それが共に生きる世界の姿である。

ハンドベル。その演奏の特色は、私たちの生き方にも大切なものを教えてくれる。「互いに強調することを目指し、出過ぎることなく、かといって遠慮し過ぎることもなく、そこそこ主張もする」「音の中にいろんな異分子が混ざり込んで、しかしそれが互いを遠ざけるのでなく、結び合う方向へと作用する」。それは「共に生きる世界」を作るために必要とされるマインド、フィーリングである。私たちも「他者と自分を響かせる」ことを目指し、さぁ共に生きよう。