2018年9月23日(日)
創世記32:23-31,マルコ14:26-52
私は格闘技を見るのが好きだ。自分でやりたいとは思わないが、鍛えた身体と研ぎ澄ました技術で闘う人々の姿に興奮するものを感じる。日頃「平和」や「和解」を語る牧師が…矛盾してる!と思われるだろうか?しかし「牧師」である前にひとりの「人間」、いや一匹の「動物」として、内なる野性を否定できないのを感じる。仲間や先輩の牧師たちにも「隠れ格闘技ファン」は多い。ひょっとしたらそのようにして、「内なる暴力性」を解消しているのかもしれない。
聖書にも格闘に関する記述がある。パウロは「私は(中略)空を打つような拳闘もしません」(Ⅰコリント9:26)と語っている。自分の宣教に臨む姿を拳闘(ボクシング)に譬えるのであるが、このような譬えが出てくるということは、パウロも格闘技ファンだったのでは?と想像が膨らんでしまう。
もちろん、ホッブスやルソーが言うように、「万人の万人に対する闘争」を回避するために法や秩序といった社会契約が必要であり、そのような積み重ねの上に今の私たちの社会の秩序が築かれている。直接殴り合わずに物事を解決するのが文明社会である。しかしそのようにして「骨抜き」にされた人間の、それでもその心に残る動物の本能を確認するかのように、人は格闘技に熱中するのかも知れない。
旧約聖書には、神と格闘した人の話が登場する。アブラハムの孫、ヤコブがその人である。ヤコブは兄・エサウと仲たがいをし、恨みを買い殺されるのを恐れ逃亡の旅に出る。その旅の途中で神の使い(または神ご自身)と格闘するのである。よく知られた話であるが、物語としては何ととらえたらよいか戸惑うような、荒唐無稽なお話である。
この「神との格闘」は、ヤコブが兄エサウと仲直り・和解に向かう旅の途中に起こった。「仲直り・和解」というと聞こえはよいが、ヤコブにとってそれは正直言って気の重い事柄、出来れば向かいたくなかった目的地だったことだろう。それは、そのような運命を定められた神さまと格闘するようなことであった… そんな意味が込められているのかも知れない。
新約聖書はイエスのゲッセマネの祈りの場面である。十字架の苦しみを前にして祈るイエスの姿。それはまさに神と格闘する姿である。「できることならこの盃を取り除けて下さい」とイエスは祈る。しかしその後に「わたしの思いではなくみこころのままになさって下さい」と祈られた。もしもイエスの祈りがこの後段の祈りだけだったならば、まさにイエスは「立派な神の子」だろう。しかし前段の祈りがある。それは生身のひとりの人間の姿である。そしてこの二つの祈りが並列に置かれているところに、私たちの学ぶべき点もある。
「すべてはみこころのままに」そう信じて祈るのが信仰者の理想の姿かも知れない。しかし不本意で不条理な事柄が起こる時、私たちの心には「すべては神のみこころだ」とは受け入れられない心情が宿る。それはちょうど、平和と公正を望む人の心の中にも格闘技に熱中する心が残っているようなものだ。そのような心情を「不信仰だ、信仰者にふさわしくない」と言って排除しなくてもいい。それもまた自分の偽らざる心であることを隠さず、神と格闘すること。それもまた私たちの信仰のひとつの姿だと言えるのではないか。