2018年9月30日(日)
出エジプト32:7-14,マルコ14:43-52
聖研祈祷会では出エジプト記を学んでいる。古代イスラエルの人々の信仰の原点とも言えるエジプトでの奴隷からの解放物語。その信仰に基づいて唯一の神・ヤハウェとの契約である律法に従って歩む…それがイスラエル(ユダヤ人)の信仰だ。一神教の誕生である。
その一神教の信仰の中で、ひとつの大きな特徴と言えるのが「偶像崇拝の禁止」である。ユダヤ教から派生したキリスト教、さらにイスラム教もその意識を引き継いでいる。
なぜ偶像を拝んではいけないのだろう?逆に言えば、人はなぜ偶像を拝もうとするのだろうか?偶像崇拝を禁じているキリスト教会でもカトリックには聖母像、ハリストスにはイコン(聖画)がある。最も偶像崇拝を厳禁しているイスラム教でもアラベスク模様が発展する。人間はそのような「目に見えるもの」としての偶像(アイドル)を求める心を持っていると言える。
このような「形の上での行為としての偶像崇拝」ではなく、偶像崇拝をするその動機に注目する議論もある。人が偶像を拝もうとするその目的は何か?という視点である。「この神さまを拝んでおけば、自分の願い(欲望)がかなえられる…」そのような意識を持って神に祈るということ、自分の願望を都合よくかなえてくれる神々を求めるということ、「それが偶像崇拝だ」というのである。なぜそれを禁ずるのか?それは神と人との関係性が逆転しているからである。
モーセが十戒を授かるために山に登ったまさにその時、イスラエルの人々は金の子牛の像を作りそれを拝んだ。いったいなぜ?「モーセがなかなか山から下りてこないので…」と記されている。指導者不在の心細さ、「本当に神は救って下さるのか?」という疑心暗鬼…。結果の見えない現実に苛立ちを覚える心理が、人々を金の子牛に向かわせたのだろう。
一方の新約聖書に記された「裏切り者」ユダの姿。なぜ彼がイエスを裏切ったのか。諸説諸々あるが、今日は一つの解釈に注目したい。<カリオテ出身の男(イスカリオテ)であるユダは、同郷から何人も輩出されていたユダヤ独立派の一員であり、イエスにその革命のリーダーとなることを期待していた。しかしイエスにその気がないと知ると、絶望してイエスを裏切った…> という説である。この解釈に立つならば、彼もまた「結果が見えないこと」に失望し、自分の願望に従う道を求めた人物となるのではないか。
「偶像崇拝」とは、自分の願望・欲望を神として拝むふるまいのこと ― そんなメッセージを二つのテキストから読み取りたい。コロサイの信徒への手紙でパウロはこう記す。「情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。」(コロサイ3:5)
けれどもそれは言い換えれば、形の上での行為に目くじらを立てなくてもいい、ということだ。たとえそこに刻んだ像を拝む行為があったとしても(例えばマリア像や仏像に手を合わせる、等々)、そこでささげられる祈りが自己中心的なものではなく、日々の恵みへの感謝と隣人の幸福を祈るものであり、なおかつ結果が見えなくても委ねる気持ちがあるなら、それは「偶像崇拝」ではない…そう言えるのではないか。
目に見えない神を信じるのは簡単なことではない。結果が見えないときはなおさらである。しかしそれでも神を信じ、委ねて祈り、そして生きてゆく。そんな信仰を求めよう。