『 脛に傷持つ者を… 』

2018年10月21日(日)
出エジプト2:11-15,マルコ14:66-72

新しい閣僚が選ばれると、その人の過去の発言や言動がチェックされる。中には議員になる前の時代の、高校生・中学生の頃のエピソードまで拾い上げられ、「このような人を閣僚にするのはいかがなものか」的な報道がなされることもある。「ふさわしい人を選びたい」という思いからだろうが、私はいたたまれない気持ちになる。

過去に過ちを犯した者は、もう二度と新たな歩みを踏み出すことは許されないのだろうか。もしそうであるならば、私も牧師をすることをはばかられる。未熟で無知だった中高時代、いくつもの過ちを犯し、人を傷付け周囲を困らせたことがあるからだ。私はそんな「脛に傷持つ者」である。しかし聖書には、神の働きを担うのに、そのような「脛に傷持つ者」が選ばれる物語がいくつも記される。

エジプトで奴隷であったイスラエルを解放した英雄モーセ。しかし今日の箇所が伝えるのは、若き日のモーセの後ろめたい出来事である。エジプトの王家に拾われ育ったモーセ。しかしどこかで彼は自分の出自を聞かされていた。ある日同法のイスラエル人が虐待を受けているのを見て助けようとするが、勢い余ってエジプト人を殺してしまう。そしてその事件の発覚を恐れて逃亡の旅に出るのである。

現代の罪状で言うならば「過剰防衛過失致死」。それに逃亡罪が加わる。逃亡先のミディアン人祭司・エトロのもとで一時の平穏な暮らしを手に入れ、妻・ツィポラと結婚する。映画「遥かなる山の呼び声」の健さんと同じ状況、指名手配中の殺人犯である。そのようなモーセを、神はイスラエル解放のリーダーとして選ばれた。品行方正な義人ではないのである。

新約聖書はイエスを裏切るペトロの出来事。「どんなことがあってもあなたに従います!」と意気込んでいたペトロであったが、イエスが逮捕される状況の中でイエスを見捨てて逃げ去り、なおかつ「あんな人は知らない」と3度にわたって否認した。しかしペトロの物語はそこで終わらなかった。初代教会の指導者として、大切な働きを担っていったのだ。ローマカトリック教会の代々の教皇はペトロの後継者という位置づけである。バチカンにある総本山は「サン・ピエトロ(聖ペトロ)寺院」である。

キリスト教最大の伝道者・パウロもまた、当初は教会の迫害者のひとりだった。ステファノの殺害の際には首謀者のひとりであったとルカは伝えている。しかしイエス・キリストと真に出会って以降は、命をかけて宣教する働きを担い通す者へと変えられていった。

神はその働きを委ねる時に、非の打ちどころのない義しい人を選ばれるとは限らない。むしろ「脛に傷持つ者」を選ばれることもある。でも、いったいどうしてなのだろうか。それはそのような人こそ、人の弱さ・不完全さを知る人であり、なおかつ罪赦されて新しく歩むことの喜びを知る人だからだ。

勉強のよくできる人が必ずしもよい家庭教師になれるとは限らない。運動神経の優れた名選手が、必ずしもよいコーチになれるとは限らない。むしろ「最初はできなかったけど、努力してできるようになった人」の方がよい教師・コーチになれることがある。それは「わからない人・できない人」の気持ちが分かるからだ。

神は罪人を救うために、敢えて「脛に傷持つ者」を選ばれた。罪・過ちを犯す人間の気持ちを分かりながら、なおかつそれを乗り越えて生きる喜びを知る人を神は選び、その働きを託されるのだ。