『 神の言葉を預かる者 』

7月6日(日)

マルコによる福音書6:6‐13

「ありのままで」。今年子どもたちの間で最も流行った歌“Let it go”(アナと雪の女王)のテーマソングにも歌われる言葉だ。聖書が語りかけるメッセージの中で、もっとも大切だと思うものだ。自分の人生を、自分以外のものとの比較で一喜一憂するのでなく、与えられた自分のありのままの姿で生きること。「あなたはあなたであっていいよ。そのままの姿で生きていきなさい。」それはイエスが人々に語られたメッセージそのものだ。

しかし聖書からは、同時にまったく正反対のメッセージも響いてくる。それは「あなたは、本当にそれでいいのか?」という問いかけだ。弱さの中に居直り、成長や悔い改めへの道を避けようとする私たちに、神は常に問いかけられる。「あなたの生き方は、本当にそれでいいのか」と。この二つのメッセージを同時に受けとめ、その間を行きつ戻りつすること。それが信仰生活の課題と言えるだろう。

問いかけるメッセージを人々に示す働きをしたのが、預言者と呼ばれる人たちだ。未来を「あらかじめ(予)語る」のではなく、神の言葉を「あずかり(預)語る」のが「よげんしゃ」の役割だ。預言者はその状況に応じて、様々な神の言葉を語る。時には慰めと希望の言葉を語り、時には糾弾と激しい問いかけの言葉を語る。

アモスは「糾弾の預言者」の代表格だ。たとえ王や側近の者たちと対立することになっても、厳しい神の裁きの言葉を語る。迫害を受けてもその歩みはひるまない。社会にはそのような存在が必要な時がある。

イエスが弟子たちを宣教のわざに遣わされるとき、命じられた言葉がある。なるべく質素な出で立ちで出かけること、迎えてくれた家にはお世話になり切ること、そして受け入れられなかった街を出る時は「足の埃を払い落す」こと。持ち物に頼らず、人にも頼らず、緊張感を持って「み言葉」を語る姿が浮かび上がる。イエスは弟子たちに「小さな預言者となれ」と命じておられるのではないだろうか。

イエスご自身が、「人を恐れず、人に媚びず、真理の道を語る」(讃美歌438)、そんな預言者の最たる存在であった。アモスも、王のおかかえ祭司・アマツヤによって活動を禁じられた時、返した言葉に預言者の気概が感じさせられる。しかし弟子たちはどうか。「それは無理でしょ」と思う。ついこの間まで、ガリラヤのしがない漁師や徴税人だったような人たちだからだ。

しかし、すぐさま「大預言者」とはなれなくても、小さな預言者にならなることができる。人と人との関わりの中で、神さまのみこころを尋ねて生き、それを人に語る。生き方を神のまなざしの元で見つめ直してみる。それができれば小さな預言者への第一歩である。弟子たちだけでなく、私たちも。