2018年12月2日(日)
エレミヤ33:14-16,ヤコブ5:7-11
教会の暦はアドベント(待降節)から始まる。クライマックスとも言えるクリスマス(イエス・キリストの降誕)からではなく、そのクリスマスを待つ期間から新たな歩みが始まるということ。そこには何か大切な意味が込められているように思う。
キリスト教は「待つ宗教」であると言える。何かを構築したり、達成したり、修業を積んで悟りを開いたりするのでなく、神の救いの到来をひたすら待ち望む… それがユダヤ教以来の伝統的な信仰者の佇まいである。「♪むかしユダヤの人々は…とうとい方のお生まれを、何百年も待ちました」(旧幼児さんびか)。何百年と待つ信仰…それは時を超え世代をこえた希望に向けての民族共同作業である。
「待つ」という行為は、「未だ」それが達成されていない、という現状と、「やがて」それは達成されるという期待・見通しとの間に身を置く行為である。そしてその「待つ」という行為には、「信じる」という気持ちが不可欠である。
現代社会は効率優先、スピード優先の社会である。そんな社会に生きる私たちは待てなくなっている。電車の5分の遅れ、エレベーターのドアが閉まる5秒間、ネット回線がつながるまでのほんの数秒間すら待てなくて、イライラしてしまう。そんな現代人は、何かを信じるということも下手くそになってきていると思う。そんな私たちだからこそ、何百年、何千年と待ち続けた(ている)人たちの姿から大切なものを学ばねばならないのではないか。
「忍耐しながら待ち望め」とヤコブ書の著者は教える。その模範として「主の名によって語った預言者」の姿を示す。今日の旧約はエレミヤ書、該当箇所にはとても希望に満ちた力強い言葉が語られているように読める。
ところがエレミヤはバビロン捕囚期に活動した「嘆きの預言者」である。民族存亡の危機の中、安易な慰めを語らず、人々の耳の痛いことでも語るべきことを語ったが故に、逆に疎まれ蔑まれた経験。そんな中「私の生まれた日は呪われよ」とまで語った人だ。今日の箇所はそんな嘆きの思いを抱きながら、「それでも最後にはここにすがるしかない」という思いで語られたものではないかと思う。
ヤコブ書ではもう一人、忍耐した人のお手本としてヨブの名が挙げられている。ヨブは、『ヨブ記』の序盤では度重なる不幸の中でも決して神を呪わず、その運命を受けとめようとする信仰者の模範のような姿が描かれる。ところが中盤以降は理不尽な自分の運命について、神に不平をまき散らす姿が描かれる。ヨブは忍耐することをやめてしまったのか?そうではなく、呪いながら忍耐していた、ボヤきながら希望に向けて待ち望んでいたのではないか。
「忍耐して待ち望む」とは、「どんな試練の中でも愚痴一つこぼさず、鉄の意志でじっと耐える姿」ばかりとは限らない。悩みやうろたえを抱きながら、「未だ」と「やがて」との間に身を置き、それでも最後まで希望を捨てずに信じる…そんな姿もあってよいのではないだろうか。