『渇きを潤すいのちの水』

2018年12月9日(日)
イザヤ55:1-5,ヨハネの黙示録21:5-7

神戸から長女と孫が遊びに来た。前橋で一晩過ごして言うことには「何と乾いた気候だこと!」。ずっと暮らしていると慣れてしまっているが、よそから来ると尋常ではない乾燥地帯に感じるらしい。同じことは今年吾妻教会に来た稲垣牧師も言っておられた。彼は藤岡育ちであるが、大人になって久しぶりに住む群馬は、とても乾いた土地に感じるらしい。

乾いた土地で育まれた県民性(気質)というものがある。私が子どもの頃、伊勢崎の親戚の家を訪ねて感じたのは、育った地・京都人のジメっとした人間性に比べて、オモテ・ウラのないカラッとした上州人の気質であり、それが結構気に入っていた。「乾いている」のも悪いことばかりではない。

しかし、気質ではなく「心が渇いている」というのは、あまり良いことではないだろう。それは生きている意味・喜びを見えにくくさせるものとして作用してしまうからだ。

「そんな心の渇きを覚える者は、神の許に帰り、いのちの水を飲むがよい」― それが今日のイザヤが語る言葉である。「銀を持たない者も来るがよい、値なしに飲ませよう」と語られていることに注目したい。神によって与えられるその潤いは、無償で与えられるということだ。

私たちは自分の欲望を満たしてくれる者には多くの対価を払ってもそれを手に入れようとする。しかし、魂を本当に潤すもの(しかも無償!)を求めようとしているだろうか。むしろその場しのぎの刹那的な快楽を手に入れるために、あくせく働いているのではあるまいか。

そんな私たちに本当の渇きを潤す水の在り処を示すために、イエス・キリストは来て下さった。イザヤの言葉を読む時に、ヨハネ福音書のイエスとサマリアの女との井戸端での対話を思い出す。女にイエスは語りかける。「この井戸の水を飲む者は、誰でもいつかはまた渇く。しかし私が与える水はその人の内で泉となり、永遠のいのちに至る水が湧き出る」。

彼女には5人の夫がいたが今は誰もいない、という境遇であった。どんな事情があったかは分からない。しかし決して心おだやかな日々とは言えない暮らしをしていた人だったと想像できる。人からあれこれ言われ、自分でも自己を責めて、心が渇き切っていたのではないだろうか。

しかしイエスは決して彼女を責めない、咎めない。サマリアvsユダヤの対立を乗り越えて、彼女の存在を受け入れておられる。彼女にとって、イエスの語りかけ、ふるまい、そしてその眼差しは、心の渇きを癒してくれるものだったのではないか。

先日、久し振りに星野富弘美術館に行った。その時初めて知った、小学校の時の担任(中山先生)とのエピソードをが紹介されていた。5年生になった時の担任・中山先生は、富弘少年にとっては期待はずれの「おばさん先生」。ある日、2階の教室から水を流し階下の下級生のクラス担任からこっぴどく叱られたことがあった。下の階に呼びつけられ、下級生に謝罪をさせられて、しょげ返ってクラスに戻るために階段を昇る、と中山先生が立っていた。「またこっぴどく叱られるのだろうなー」と思っていたところ、先生は富弘少年の目を見つめ大きくうなずくと、何も咎めず、何も責めずに教室に迎え入れてくれた。その出来事を振り返って富弘さんはこう記される。「中山先生が担任でよかった。もし中山先生に見てもらっていなかったら、私のその後の人生は違ったものになっていただろう。」

ひとりの人との出会いの思い出が生涯にわたって心に潤いを与える。そんな出会いを持ってる人は幸いだ。サマリアの女性とイエスとの出会いもまた、そのようなものだったのではないだろうか。私たちもイエスと、そんな出会いを持てる信仰を抱きたい。ヨハネ黙示録に記された、再臨のイエスの言葉を改めて味わおう。「渇いている者には、命の自ら値なしに飲ませよう。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。(黙示録21:6-7)