11月9日(日)
創世記18:9-15、ローマ5:12-21
『 アブラハムには七人の子? 』 創世記18:9-15、ローマ5:12-21(11月9日)
子どもの遊び歌で、アブラハムの歌がある。「アブラハムには七人の子、ひとりはのっぽであとはチビ、みんな楽しく暮らしてた、さぁ踊りましょう」。この歌に合わせて、右手、左手、右足、左足…どんどん動かす場所を増やしていくなかなかハードなゲームだ。
はたしてアブラハムに本当に七人の子がいたのか?創世記の記述によるとサラとの間にひとり(イサク)、そして2番目の妻ケトラとの間に6人の子が生まれたとある。しかし「側女の子どもたち」という記述もあるので、もっとたくさんいたのかも知れない。
僕が初めてこの歌を知ったのは、新島学園の寮のクリスマス会。ベーケン宣教師に教わった英語の歌では“Father Abraham had many son”(アブラハムにはたくさんの子)と歌われていた。歌詞はこう続く。“I am one of them, and so are you”(わたしもその一人、そしてあなたも)。子ども向けの遊び歌だからといって侮るわけにはいかない。ここには一つの明確な信仰理解が歌われていると思うのだ。それは「あなたもわたしもアブラハムの子=神の祝福を受ける約束の子」という信仰である。
聖書において「アブラハムの子」と言えば、第一義的にはユダヤ人のことである。神と契約を結び、神の命に従って故郷を旅立ったアブラハム。その信仰に対して神は子孫の繁栄と、新たに住む土地を約束された。神の救いと祝福を約束された人々。それがアブラハムの子=ユダヤ人ということである。
その信仰はやがて特権化した「選民意識」を生み出す。その姿を批判したバプテスマのヨハネは、「神はこんな石ころからでもアブラハムの子をお造りになる。」と語った。
パウロはかつてはひとりのユダヤ人律法学者として、まさに特権化した選民意識の中にどっぷり浸かっていた人だった。しかし貧しい隣人のために命を捨てたイエスとの出会いにより、そのユダヤ人としての特権を「塵・あくた」のように感じるようになったと記している(フィリピ3:8)。
パウロの後半生のテーマは、ユダヤ人以外の異邦人にもイエス・キリストの福音を伝えることであった。「イエス・キリストを信じる信仰さえあれば、ユダヤ人でなくても、異邦人であっても救われる。約束の子=アブラハムの子になれる。」現代の私たちにとっては当たり前に思えることだが、ユダヤ人エリートだったパウロにとっては、この言葉を口にするには命がけの跳躍が必要だったことだろう。
特権化した信仰心、それはユダヤ人だけに限ったことではない。私たちの心の中でも常に起こりうることだ。自らの功績、名声や貢献度、信仰生活の長さや献金額によって救いが決まるわけではない。イエス・キリストの福音に導かれて自らの罪を悔い改め、神の救いを信じる者は、みな「アブラハムの子」となれるのだ。