『苦行ではなく、喜びこそが 』

2019年2月3日(日)
イザヤ58:4-8,ルカ5:33-39

大河ドラマ『いだてん』の中で、マラソンに挑む金栗四三が「水抜き・油抜き鍛錬法」によって練習し、倒れてしまう場面があった。そう言えば私の中学時代の野球部でも、「練習中に水を飲むとバテるから飲むな!」と指導されていた。今では絶対にやってはいけない指導法だ。

苦行を通して成長する、という考えが古くからある。宗教における修行などもそのひとつ。禁欲や厳しい修練といった苦行を積むことによって信仰がより深まるという考えは、古今東西あらゆる宗教に共通する。修行を通して自分の存在のちっぽけさを知り、自己の欲望の奴隷にならないように努めることで、信仰が深められることは確かにあるだろう。

「断食」という苦行は、ユダヤ教では「施し」「祈り」と並ぶ三大宗教的行為と考えられていた。信仰熱心な人は週に2度断食していたようだ。また断食には「罪の悔い改め」「懺悔」といった意味合いも含まれる。

モーセは約束の地・カナンに向かう旅の途中、40日40夜の断食をしている。民がわがままゆえに犯す罪の贖いを、民を代表して神に祈り求めるためである。ダビデもエリヤもほかの預言者も、度々断食している。

イエス・キリストもまた、公の宣教活動に入られる直前、モーセと同じ40日の断食をしている。はたしてイエスに「罪のゆるし」を願う必要があったのかどうかは分からない。ただ、これから始まる宣教活動(それは厳しい道のり)に臨むにあたり、ある種の修行・鍛錬が必要だったということなのだろう。

ところがイエスは「断食する時は見苦しい顔をするな」(マタイ6:16)ということも教えている。「私はこんなに苦行しています!」と意識することで、自分がさも立派な信仰者であるように思い込むあやまちをイエスは指摘される。

今日の箇所は「断食問答」と呼ばれる場面だ。「ファリサイ派やヨハネの弟子たちは断食してるのに、なぜあなたや弟子たちは断食しないのか?」と非難する人々に、イエスは「今は婚姻の時だろう?祝いの席に断食など似合わないよ」と応えておられる。「新しいぶどう酒は古い革袋に入れてはならない。」これは、人々の生き生きと生きようとするエネルギーを、断食のような「古い慣習」に押し込めてはいけない、ということだ。

イエスは断食を否定しているのか?そうではない。イエスが批判するのは、「断食を根拠に優越感を抱く人」であり、「断食を人に強いる風潮」である。苦行に耐える自分を誇り、苦行を人に強いて耐えられない人・守れない人を見下げるような人を、イエスは「古い革袋」と呼ばれたのだ。

横浜ベイスターズの筒香選手は、現在少年野球の指導に力を入れている。そこで大切にしていることは「野球を楽しむこと」。日本の中学・高校の現場では、「ミスをしてはいけない」「ミスをしたら罰を与える」という指導がなされることが多い。筒香選手もかつてそのような指導を受け、のびのびとプレーできないことがあった。ところがプロになって、オフ・シーズンにドミニカに野球留学に行った時、目からウロコが落ちた。ピッチャーは思いっきり投げ、バッターは思いっきり打つ。ミスしても、コーチはそれに文句をつけない。そこにはのびのびとプレーし野球を楽しんでいる子どもたちの姿があった。「この喜びを伝えたい!」それが『筒香野球教室』の出発点だという。

人生において、苦しみに耐えなければならない時もあるだろう。それをくぐり抜けることで、心身の成長が備えられることも。けれども、根底に喜びの感じられない苦行を強いられても、そこに本当の成長はない。イエスは知っておられたのだ。本当に人を作り変え、豊かに成長させるのは、苦行や処罰に耐えることではなく、生かされる喜び・出会いの喜びの体験であることを。