11月16日(日)
出エジプト3:7-12、ルカ20:27-40
旧約の聖書の箇所は、モーセがイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から解放するために、神によって選ばれその役割を命じられる場面である。ミディアンの地で羊飼いをしながら平穏な日々を過ごしていたモーセ。その彼の前に、神は「燃え尽きない柴」の形をとって顕現された。
神がモーセを招かれるにあたって、聖書の中に繰り返し登場する言葉が、神の名乗りの言葉として語られる。「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。これは直接的にはイスラエル人(ユダヤ人)の神という意味だが、広義の意味では神の約束を信じる人々の神というとらえ方になることは、先週のメッセージでも触れた通りだ。
新約聖書の箇所では、イエスがサドカイ人との「復活問答」において、この言葉を用いている。「復活はない」と主張していたサドカイ人たちが、イエスを試そうとして突き付けた奇妙な質問に対して、「復活はある」ということを示すためにイエスは「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という言葉を語られるのである。これはどういう意味だろうか。
こんな解釈がある。アブラハム・イサク・ヤコブは死んで葬られた人々である。しかし彼らに命を与えられた神は、いつまでも死なない。「草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ。」(イザヤ40章) そしてその永遠に生きる神との関わりの中に覚えられることを通して、アブラハムもイサクもヤコブも今も生きているのだ… そんな解釈である。
何だかわかったような、わからないような気持になる。ただ大切なことは、過去の時代に人に働きかけられた神は、今も私たち人間に働きかけられるということであろう。
そんな神によって招かれたモーセ。しかし彼の応答は決して模範的なものではなかった。「私には重い役割です。私はその働きを担うのにふさわしい人間ではありません。他の誰かを探して下さい。」そんな風に、何とかしてその任を逃れようとするのである。
そんな姿を見て「情けない!」と思う人もいるだろう。しかし私はなぜかほっとする。「モーセも同じやったんやなぁ…」そう感じるのだ。その「私はふさわしくない」と言うモーセをこそ、神は選ばれた。神の働きは「自分がそれにふさわしい」と自信満々の人間によってではなく、「ふさわしくない」と自認する人によってこそ担われるものなのかも知れない。
モーセを突き動かした神の言葉がある。「わたしはいつもあなたと共にいる。」この言葉を信じるところに、弱い人間がそれでもまっすぐ歩く道のりが備えられる。