『「正しさ」よりも「愛」を 』

2019年2月10日(日)
出エジプト20:8-11,ルカ6:1-11

私たちの社会には長年積み重ねられてきた様々なルールがある。それを守ることによって社会は秩序を保たれるのだから、ルールを守ることは「正しいこと」だ。しかし一旦定められたルールを「何が何でも守らねばならない。ルール違反は厳しく罰するべき!逸脱は許さん!」となってしまうと、何とも世知辛い、人間性を置き忘れた社会になってしまうように思う。

人に多大な迷惑や被害を与えるルール違反は論外だが、たとえば「元旦の、一台も車が通っていない交差点で、赤信号を無視して渡る」ぐらいの逸脱は、黙認されてもいいのではないか。人間は「信号」という「機械」に支配されて生きているのではないのだから。

「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」(マルコ2:27)イエスが安息日に麦の穂を摘んだ(労働した)のをファリサイ派の人から咎められた時に返した言葉だ。

安息日の決まりごとは、信教共同体としてのイスラエルにとって、大切な定めであった。神の天地創造後の休息にならい、人も仕事を休み礼拝する。安息日は「聖なる日」であった。

しかし安息日には別の意味合いもあった。働く人や家畜を休ませ「元気を回復するため」(出エ23:12)であった。(現代では安息日=日曜日はレジャーの日となり、かえって疲れる日となっているが…) ところが一旦定められると、その安息日に違反する者は「死刑に処せられる」(出エ31:14)となる。「元気を回復させる日」が「死刑付きの恐ろしい掟」になってしまうのである。

その倒錯した関係を糺したのが「安息日は人のために…」というイエスの言葉だ。そこには、人間とルールや決まりごと・法律や律法との関係性が見事に言い表されている。(しかしこの重要な言葉を、マタイやルカは省いている。「それはいくらなんでも言い過ぎだ。」という判断か?)

イエスが安息日に「手のなえた人」を癒された出来事が記される。批判的に見つめる人々に「安息日にゆるされているのは、命を救うことか、殺すことか?」と言われた。これは少々大げさだ。恐らく慢性の症状であったその人は、次の日まで待ってもよかったからだ。しかしイエスは「敢えて」安息日にその人を癒される。そうすることで一つのメッセージを示すためだ。

「安息日の掟を守る『正しさ』よりも大切なものがある。それは目の前にいる人を大切に思う気持ち、すなわち『愛』だ!」それがイエスのメッセージである。このやりとりの後、ファリサイ派は怒り狂いイエスの殺害を画策し始める。それが最終的にイエスの十字架の苦しみへとつながっていった。だとするならばこのメッセージはいわば、イエスの「命がけのメッセージ」なのだ。

「正しさ」よりも「愛」を。このイエスの命がけのメッセージを大切に受けとめ、生きてゆきたい。