2019年2月17日(日)
コヘレト11:1-6, ルカ8:4-15
「日本基督教団の2030年問題」というものがある。このままいくと2030年には、多くの教会で75歳以上の教会員が3分の2を超えることになるという。それでは教会の維持存続が難しくなるということで、「だから伝道を、青年や子どもに伝道を!」ということが盛んに言われる。しかし基本的な違和感がある。伝道とは、教会の維持存続のためにするものなのか?という疑問を抱くのである。
企業は市場原理主義に基づき、業績の延びそうな分野に資本を投入して、自らの維持存続をはかる。「選択と集中」である。近年、その市場原理・競争原理を教育の現場にも取り入れようとする動きがある。けれどもそのような教育改革うまく進まないだろう。なぜならば、教育の成果とはそんなに短期間に表れるものではないからである。その人の生涯のうちに成果が出ればそれでいい… 教育とはそのような「息の長い」取り組みである。
同じことが伝道にも言えるのではないか。「伝道」とは「道を伝える」こと。その人に伝えた人生の道(イエスに従う道)によって、その生涯のどこかで豊かさを生み出すことにつながるのであれば、その伝道には成果があったのだ。
「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってからそれを見出すであろう。」(コヘレト11:1) 一見ムダに思えることであったとしても、それを続けていればいつかは実りをもたらすことがある … そんな関わりの大切さを示す聖句である。7節には「朝も夜も種をまけ。手を休めるな。どの種が実を結ぶのか、わからないのだから。」と記される。伝道や教育に携わる際のスピリットを学ぶ言葉だ。
新約はイエスによる種まきのたとえである。イエス自身の解説が記されているので詳しい説明は省くが、市場原理主義的な農場経営の観点からすれば、この農夫は「失格」である。ムダが多過ぎる。賢い農夫ならばムダが出ないように、良い土地だけを選び、そこに集中的に種をまくだろう(『選択と集中』)。
しかしイエスは、成果が出そうにもない土地にも種をまく農夫の姿を語る。それは、種を芽生えさせ実らせるのは人間ではなく、神の力であることを知っておられるからである。わたしたちにできることは、種をまくこと、まき続けること以外にない。
前任地の教会で、70代の男性が退職後礼拝に通われるようになり、洗礼を受けられた。受験エリート校から東大に進み、社長を長く務められた方だった。しかし自分の人生を振り返って、中学高校大学時代に楽しい思い出がひとつも思い出せない。思い出すのは昔通っていたキリスト教幼稚園の温かな思い出だった。それで礼拝に通うようになり、洗礼を受けられた…。
「種をまくこと」の実りとは、そのくらいの時間がかかるものなのかも知れない。その種の成長を喜び、他の種もきっと導かれることを信じて種をまき続けること、それが「伝道」である。