『 わたしの持っているもの 』

2019年2月24日(日)
ヨブ記2:1-10 使徒言行録3:1-10

ジャズのスタンダードナンバー、“On the sunny side of the street”(明るい表通りで)の歌詞に、「たとえ1セントも持っていなくても、気分はロックフェラーみたいに金持ちさ」という言葉がある。アメリカの大恐慌時代に生まれた歌だが、お金のあるなしで幸せが決まるんじゃない!といったメッセージが現わされている。

現代社会を生きていくためにはある程度のお金は必要だ。しかしお金(財産)があれば人は幸せになれるかというと、そんなに単純ではない。多くのお金(財産)を持っていても、「まだ足りない!」と不満ばかりでは幸せにはなれない。資産を守ることを意識し過ぎて人が信じられなくなるのも同様だ。まるでお金の奴隷のように身をすり減らして働く生き方が人を幸せにするとは思えない。

信仰の世界、宗教の価値観というものは、そのような財産によらない幸せのありかを示してくれる。ヨブは立て続けに起こる不幸な現実の中でこう語る。「わたしは神から幸福をいただいたのだから、不幸をもいただこうではないか。」これは信仰者のたどり着く究極の悟りの境地を表している。

「信じればいいことがある、ご利益がある」「信じているのに不幸があるのは、信仰が足りないからだ」そういった分かりやすいメッセージを発する宗教が世にはあまた存在する。しかし私は、まことの信仰とはそういうものではないと思う。自分にとってうれしいことだけを喜び、いやなことは呪う… というのではなく、幸も不幸も受けとめてその中をどう生きればいいのか?ここに示された神のみこころとは何か?… そんな問いを立てるたたずまいこそ、まことの信仰だと思うのだ。

新約の箇所は、イエス亡きあと宣教に向かう弟子たちの姿である。まだ「若葉マーク」をつけて運転してるような頼りない弟子たち…。そんな彼らが神殿の「美しの門」の前で足の不自由な人に出会う。神殿に来る人々に施しを乞うことで何とか生きる糧を得ていた人である。

ペトロは「私たちを見なさい」と語りかける。男は「何かもらえるのだろうか」と思って見つめると、ペトロは言った。「金銀は私にはない」。あなたが期待しているものは持ってないよ、ということだ。「しかしわたしが持っているものをあげよう」、そう言って力強く語りかける。「イエス・キリストの名によって歩きなさい」。すると男は躍り上がって歩き出した…そう記される。

ペトロが「奇跡をおこす不思議な力を得たこと」が大切なのではない。人からの施しに頼って生きていたこの男が、イエス・キリストを信じる信仰によって歩き始めた…そのことこそ奇跡なのだ。

イエス・キリストに従って生きる喜び、それこそが「わたしたちの持っているもの」だ。それはどんなにお金を持っても、地位や名誉を極めても、そのことによっては手に入れられないものなのだ。

< 前橋教会からのメッセージ >(ホームページ、教会パンフレット より)

「おとなたちへ…わたしたちは、お金で買えるしあわせを提供することはできません。でも、お金では手に入らないゆたかさなら、どこで手に入れたらよいかを知っています。

こどもたちへ…わたしたちは、受験に役立つ知識を教えることはできません。でも、生きる上で大切な知恵なら、だれが教えてくれるかを知っています。

聖書に記されたイエス・キリストの教えや生き方。その姿を道しるべにして、人生の旅路を歩むとき、それらのものはきっと与えられる…わたしたちは、そう信じています。

共に歌うことの楽しさ、信じることのゆたかさ、愛することのあたたかさ、そんなことを大切にしたいと願っている教会です。」