『 それでもつながっている 』

2019年3月24日(日)
マルコ14:27-31、ヨハネ15:5a

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。わたしにつながっていなさい。そうすれば豊かに実を結ぶ。」幹であるイエスとつながっていることの大切さを示すイエスの言葉である。「イエスさまにつながっていよう。そうすればそこに豊かな人生が与えられる。」私たちはこの言葉からそんなメッセージを受けとめている。

では、そこで言われる「豊かに実を結ぶ」ということは、具体的にどんなことなのだろうか。「品行方正で、立派で、清らかで、誰からも批判されない人生」なのだろうか。イエスはどこに出しても恥じないような完璧な人生を歩め、と言っておられるのだろうか。

直前のところでイエスは弟子たちにとても辛辣なことを言われている。弟子のユダの裏切り・一番弟子であるペトロの否認という、悲しい予言である。これから進むイエスの十字架への苦難の歩み。その道のりで弱さをさらけ出してしまう弟子たちの姿を語られたのだ。

ペトロは叫ぶように訴える。「あなたのためなら命を捨てます!」その時点でのペトロの思い・決心には、うそ偽りはなかったであろう。本当にそうする決意でペトロはイエスにその言葉をイエスに向けた。

しかしその後、ゲッセマネの祈りのところでは眠り込んでしまい、イエスの裁判の際にはイエスとの関わりを指摘され、わが身かわいさゆえに「あんな人、知らない!」と3度にわたって関係を否認した。まさに「心は熱していても、肉体は弱い」(マルコ14:38) 姿そのものである。

イエスは弟子たちのその弱さを知っておられた。人間のどんな決意も決断も、完全なものはひとつもなく、時と場合と状況によっては、もろくも崩れ去るものであるということも。その上でイエスは言われるのである。「わたしにつながっていなさい。それでもつながっていなさい」と。

だとするならば、「豊かに実を結ぶ」とは、完璧な人格を形成することではない。弱い自分、みじめな自分はひた隠しにかくして、清らかで誰からも批判されない人格を演じることでは決してない。むしろその自分の弱さ・至らなさを認めて、それでも赦し受けとめて下さるイエスを信じながら生きていくこと。そして同じように弱さ・至らなさを抱えている隣人を、いたずらに非難するのでなく、その弱さを包み込んで下さる神の愛を信じて、その人と共に生きることである。

だからイエスにつながっていよう。つながる資格のない弱い自分だからこそ、つながっていよう。そうすればわたしたちはいつの日か、豊かに実を結ぶことができるであろう。

(レント賛美礼拝)