2019年4月7日(日)
ルカによる福音書20:9-19
二人目の孫が誕生しそのお世話のため妻が神戸に行っており、一人暮らしが二週間になる。「さみしくないですか?」と聞かれるのだが、これが案外さみしくない。生活に必要な事柄(炊事・洗濯)に時間を取られるので気が紛れる、というのもあるが、もうひとつ理由がある。同居者(ネコ)がいるからだ。ベタベタにかわいがってくれるご主人(妻)がいなくなって、やたらと私にまとわりついて来る。それに適当に相手したり、蹴っ飛ばしたりしながら何となく気が紛れてゆく。私は長年ネコが嫌いだった。子どもたちが「飼いたい」と言っても決して許可しなかった。しかし妻の策略によって、4年前から同居するようになった。そうやって嫌っていたネコに、今さみしさを紛らわしてもらっている。
人にはニガ手な存在があるが、その「イヤだ」と思っていた存在(先生、先輩、同僚、家族等々)によってかえって養われることがある。自分にとって都合の悪い、「不必要だ」と思っていた関わりがあったことで、むしろ人間の幅のようなものが与えられる経験だ。自分の好きな人とだけ関わり、嫌いな存在とは距離を置く…。そんな生き方は確かに「楽」だろうが、それだけ「薄っぺら」な生き方にもなるのではないか。私たちが豊かに歩むためには、時には「必要ない」と思う存在が、かえって必要なのだ。
イエスの「ぶどう園の農夫のたとえ」の箇所である。ぶどう園とはイスラエル(民衆)のこと、主人は神、農夫はイスラエルの指導者(王、祭司、律法学者)、主人から送られる僕は歴代の預言者を表している。イスラエルの世話をまかされた指導者たちが、自分本位な歩みに陥ってしまい、それを糺し批判する預言者たちを迫害するあり様が語られる。
そして最後に送られた主人の息子、それは救い主=メシアを表していると受けとめられるが、農夫たちはその息子を「こんな男はいらない」と言って殺してしまう。こうしてイエスはこれから自分に起こる苦難が、預言者たちの伝統に連なることを示される。
そのたとえ話の最後に、イエスは詩編の言葉を引用する。「家を建てるものが捨てた石が隅の親石となった。」これは何を意味するのか?最後の逆転大勝利、捨てられた石が敵を打ち倒す様を、イエスは語ろうとしておられるのだろうか?このあとに続くルカ20:18の言葉を読むと、そのようにも受けとめることができるかも知れない。
しかし元々の詩編の言葉はそういう意味を持たない。「捨てられた石が報復する」というのではなく、「捨てられた石が隅の親石となる」―すなわち大切な存在になってゆく、ということだ。つまり、人から「こんな石などいらない」と言って捨てられた石が、いつかその人にとって大切な土台の石となることがある、そのことを覚えておきなさい、ということだ。
律法学者やファリサイ派の人々にとって、イエスは「つまずきの石」だった。彼らはその石を捨てようとした。そんな彼らを「とんでもないヤツらだ!」とだけ評価したのでは、大切なポイントを逃してしまう。
誤解を恐れずに言えば、イエスは私たちにとっても「つまずきの石」なのだ。自己満足だけを考えて、人のことなど構わずに生きてゆきたいという欲望を抱く私たちにとって、イエスの教えや生き様が問いかけるものは、時に「耳にイタい」ものである。私たちはその問いかけから耳を閉ざし、自己中心的な思いの中に閉じこもりたくなる…そうやって私たちもまた、イエスを捨てようとしてしまうのだ。
しかしそのようにして捨てられるものの中に、実は私たちを本当に豊かにしてくれる力が宿っている…。そのことをイエスは詩編の言葉を引用して示されたのだ。自分の「好き・嫌い」という感情だけで判断を下す生き方においては、その力を知ることはできない。イエスの姿を見つめて、「捨てられた石」の力を信じ、その力に養われる豊かな歩みを求めよう。