『 悔しさの後に 』

2019年4月21日(日)イースター礼拝
創世記9:8-13、ルカ24:1-12

ペトロはイエスを裏切った。裁判の様子を遠巻きに見ていたところ、「お前もあの男の仲間だろう」と尋問され、「あんな男のことは知らない。」とその関係を否認した。イエスの予言(ルカ22:34)の通りであった。

イエスの受難予告を聞いた時、「ご一緒になら牢に入っても死んでもよいと覚悟してます!」と威勢が良かったペトロ。しかし追い詰められた肝心な状況の中で、その誓いの言葉に誠実でいられなかった。鶏の鳴き声でイエスを裏切ったことを悟ったペトロは、外に出て激しく泣いた。

そこから先、金曜日から日曜日にかけての時を、ペトロはいったいどんな思いで過ごしただろうか。自分の心の弱さのために、大事な師を裏切ってしまった… そのことへの情けなさ・悔しさを抱えながら過ごしたに違いない。

3日目の朝、墓を訪れた女性たち。イエスの亡骸に香油を塗ってさしあげたい… そんな思いで出かけた女たちが見たもの、それは「空の墓」であり、輝く衣を着た二人の人々であった。

彼らは言った「なぜ生きておられる方を、死者の中に探すのか。あの方は復活なさって、ここにはおられない。」驚いた女性たちは弟子たちのもとに帰りそのことを告げた。あまりの唐無稽な話に弟子たちはにわかには信じられないようであったが、ペトロはすぐに墓に走り、空の墓を確認した。

悔しさの後に聞いた女たちの証言は、ペトロにとっては絵空事ではなく、これから体験する喜びを予感させるものだった。自分の情けなさを痛感し、その弱さに悔しい思いを抱く人にこそ届けられる「よき知らせ」というものがある。それが女たちの言葉だった。

イースターの季節にノアの箱舟の物語がよく読まれる。子どもたちのためのメルヘンチックな絵本が多く出されるお話であるが、実は神の罪人への裁きという恐ろしい物語だ。

治水の技術が発達しない古代社会では、洪水による被害が頻繁であった。家や財産を流され、仲間や家族を助けられなかった無念の思い…この物語にはそんな人々の悔しい思いが反映しているのではないかと思う。

しかしその物語の終盤、神は洪水で人々を滅ぼされたことを悔やみ、「今後はもうこのようなことはしない」とノアに告げて契約を結ばれた。その契約のしるしとして、空には虹が架かったと記される。これもまた「悔しさの後に訪れる、よろこびの知らせ」である。

2005年1月17日、阪神大震災から丸10年の日は、朝から土砂降りの雨だった。「1.17.追悼のつどい」に集まる人々は、冷たい雨の中震えながら竹筒のろうそくに火を灯しておられた。「なんでよりによってこの日にこんな雨がふるのだ!」と恨めしく思った。しかしその後雨はやみ、雲が切れて陽が射し、六甲山に現れた光景が忘れられない。それは見事な虹がかかったのだ。その虹は、震災の出来事で悲しさや悔しさを抱かされた人々への、天からの祝福のように感じた。

よみがえりの朝、悔しさの後で女たちの言葉を聞き、よろこびの予感にペトロが見上げた空にも、きっと虹がかかっていたのではないか。そうであってほしいと思う。

人は弱さゆえに罪を犯す。居直っていはいけないが、それが偽らざる私たちの現実だ。しかしそれを悔しい思いで振り返ることができるかどうか。それが「その後」をいかに生きるかの分かれ目になる。

悔しさを抱きながら日々を過ごして生きた人にこそ与えられる天からの祝福がある。それがノアにとっての虹であり、ペトロにとってのよみがえりの知らせであった。虹は消え、よみがえりのイエスの姿も間もなく見えなくなる。しかしその虹を見、復活の知らせを聞いたよろこび・ときめきを忘れない限り、私たちは生きていけると思うのだ。「わたしも共にいるよ。さぁ新しい物語を紡いでいこう」という神さまの語りかけを聞きながら。

 
♪虹の約束 (川上盾 作詞作曲)

虹の約束 苦しみの後に
与えられる天からの祝福
どんなときも 新しい物語が始まる

虹の約束 悔しさの後に
与えられるやり直しのチャンス
あきらめずに 新しい物語を始めよう

つらい雨もいつかは降りやみ
あふれる陽の光に照らされ
空に浮かぶ七色の架け橋が
僕らを未来に運ぶよ

虹の約束 不思議な導き
信じるこころが僕らを支える
明日を信じ 空を見上げ 物語を紡ごう