『 こころが熱くなる 』

2019年4月28日(日)
ルカによる福音書24:13-34

東北教区が設置していた、東日本大震災被災者支援センター「エマオ」が、8年間の働きにピリオドを打ち、今年の3月末をもって活動を終了した。私も何度かボランティアに行かせてもらったが、エマオはリピーターの多いボランティアセンターであった。

エマオの活動の特色は「スローワーク」。スピード重視ではなく、現地の人とつながり、人力によるゆっくり丁寧な支援活動を続けてきた。当初ガソリンが貴重品であったため、片道15㎞の道のりを毎日自転車で現地まで出かけることとなった。合言葉は「私たちは微力である。でも無力ではない。」そんな活動の中で結ばれた被災地の方々との絆。それがリピーターを引き寄せる磁力となったのであろう。私を含めて、みんな心が熱くなる経験を重ねてきたのだと思う。

人が生きるのは、自己利益の追求のためだけではない。共に生きるためなのだ。「金だけ、今だけ、自分だけ…」そんな生き方を続けていたのでは決して知ることのできない豊かさを感じさせてもらった経験。それがエマオで得た宝物である。

今日の箇所は、エルサレムからエマオへ向かう道で、よみがえりのイエスに出会った二人の弟子の物語である。マルコとマタイでは、イエスとの再会の場所はガリラヤとされているが、ルカではエルサレムである。これはルカ福音書の続編・使徒言行録との関わりがあるのだろう。イエスの説かれた「神の国の福音」は、「エルサレムから世界へ」― それがルカの世界観であったようだ。

エルサレムからエマオまで約11㎞。その道のりを歩く弟子たちに一人の人が近付いてきた。実はそれがイエスであったのだが、二人はそれに気付かなかった。しかし道々話を続け、そしてエマオの宿に入り食事をするためにその人がパンを祝福して裂いた時、二人にはそれがイエスであると分かった。その瞬間、イエスの姿は見えなくなった。

亡霊か?それとも妄想か?実のところは分からない。しかし彼らは大変重要な言葉を述べている。「道々話し合った時、私たちの心は燃えていたではないか」― そう語るのである。イエスの十字架と復活の出来事、そこに至るイエスと共に過ごした日々。「自分を愛するように隣人を愛する」そのことを至上命題とし、人と出会い、互いに受け入れ、共に生きた経験。それを想い起したとき「心が熱くなった」というのである。

人を本当に動かし、生き生きと歩ませるのは、心が熱くなる体験ではないだろうか。人はノルマや義務感、命令や脅迫でも動くが、自ら喜んで生き生きとした働きを生み出すのは、感動であり、わくわく感であり、心が熱くなる体験である。その熱が他の弟子たちにも「伝導」し、初代教会の「伝道」が始まった。