『 いつも共にいる 』

2019年6月2日(日)
マタイによる福音書28:16-20

よみがえったイエス・キリストと、弟子たちが過ごしたのは40日間。その後、イエスは天に昇られた。弟子たちのもとを離れられたのである。再び遭遇した「師の不在」という状況の中を、弟子たちはどのような心境で歩んで行ったのだろうか。

譬えて見れば、それは迷子になった幼な子である。親と離れた不安でべそをかいていたところに、親が探し当てて来てくれた。しかし安心したのも束の間、親は家までの道のりを教えた後、「じゃ、私は先に帰るから、自分で帰っておいでね」とタクシーに乗ってさっさと行ってしまった…。そんな状況だろうか。

多くの人にはそのような時が訪れる。それまでは誰かが共にいて道を示し手を引いてくれた。今まではその導きに頼っていればよかった。しかしここからは、自分の力と心と判断で歩んで行かねばならない。その道のりを経て、人は自立へと導かれてゆく。

今日の箇所は、そんな不安な思いを抱えた弟子たちに向けての、イエスの最後の命令とはなむけの言葉である。この箇所はしばしば「イエスの大宣教命令」と呼ばれる。牧師や神父を志す人、海の果てまで宣教に出かけようとする人たちが、大切に抱くイエスの言葉である。

イエスの権能を引き継ぎ、洗礼を授け、イエスの命じた一切のことを教えよ、といった、かなりハードルの高い「大宣教命令」である。弟子たちはどう感じたか?初心者マークの運転者がF1レースに参加する、または中卒の野球部員がメジャーリーグデビューをするようなものである。相当重荷に感じたのではないだろうか。

その弟子たちに最後に与えられたイエスの言葉がある。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたと共にいる」。イエスは昇天日を迎え天に昇られた。イエスは弟子たちのもとから「いなくなる」。しかし、そのいなくなるイエスが、「いつもあなたがたと共にいる」と言われるのである。

「イエスはいる、いるけどいない。」「イエスはいない、いないけどいる。」それが昇天後、宣教に臨む弟子たちの思い、そして復活のイエスを信じる私たちの信仰である。これはどういうことだろうか?

例えば、今ここには存在しない人が、存在している時と同じように、あるいはそれ以上の「存在感」を持って切迫してくることがある。親元を離れて一人暮らしを始めた時、あるいは親や家族を天に送った後、一緒にあたりまえのように暮らしていた時には感じなかったその家族との「つながり」を強く感じることがある。

「存在するのとは違うし方で自分に触れてくる関わり」、人間にはそれを感じ取る力が与えられている。その心に向けて、イエスは語りかけて下さるのだ。「わたしはいつも共にいる」と。