2019年6月9日(日) ペンテコステ礼拝
創世記11:1-9, 使徒言行録2:1-11
5/30-31に行われた関東教区総会で、議事運営委員長(議運)をつとめた。議運の役目の勘所は、議事が混乱した時に道筋をつけ、審議を導くところにある。昨年の総会は冒頭から混乱し、大変だった。しかし今年はさしたる混乱もなく、予定の時間より早く総会が終わった。今年は「無風」の総会であった。議運としては楽だったが、反面「これでいいのか」と思った。激烈な議論がない、ということは、相互理解が進まない、深まらないことでもあると思うからだ。
一方、4/28に行われた前橋教会の総会では、聖餐をめぐる議案(呼び方を「聖餐」から「主の食卓」に変更)のところで様々な意見が出された。決して一色ではない、いろんな立場からの意見が表明された。結局議案は取り下げられたが、大変よかったと思っている。みんな少しずつ違う意見を持っている… そのことを表明し合い聞き合うことこそ「共に生きる」ことだ。教会総会には「風が吹いた」のだと思う。
今日はペンテコステ。イエスの昇天により再び師を失った不安のなかにあった弟子たちに、ふしぎな風が吹いて、聖霊に満たされて、勇気を与えられた弟子たちがイエス・キリストの福音を宣べ伝え始めた日だ。「聖霊によって弟子たちが強められ、ひとつになって…」というイメージで受けとめられることも多いだろう。しかし、吹く風というものは、そこにあるものを「ひとつにまとめる」というよりは、そこにあるものをバラバラに散らす力を持っているものではないだろうか。
聖霊の導きを受けた弟子たちは「霊が語らせるままに他国の言葉で話し出した」と記されている。ここにも、風によって各個別々の方向に向けて関わりを始める動きが生じたことが記される。
ペンテコステの出来事と対をなす旧約の物語が「バベルの塔」である。人が自らの力を過信し、高い塔を作り天に近づき神になり替わろうとした… その傲慢さを、神は「言葉を通じなくする」ことを通して打ち砕かれた… 。人間の罪によって、互いに言葉が通じなくなり、意思の疎通ができなくなった。それがバベルの塔の物語が語るメッセージである。
その罪の世界にイエス・キリストが来られ、福音を語り、十字架の贖いによる救いの道を開かれた。人々はバラバラの言葉で思いが通じなくなるのではなく、異なる言葉で同じ福音を聞くこととなった… それがペンテコステである。
言葉の違い・立場の違いを乗り越えさせるもの、それは「あなたにこのことを伝えたい」「あなたの言葉を分かりたい」という切なる願いである。異なる意見があってもいい。みんな同じことを言わなくてもいい。「あなたの言葉を分かりたい。」その思いさえあれば、そこにコミュニケーションの磁場が立ち上がる。聖霊の導きを受けることによって、私たちは異なる思いを抱きながら、共に生きることができる。