2019年6月16日(日)
出エジプト19:3-8a, 使徒言行録2:22-36
私はあまり奇抜な説教題はつけない方なのだが、今回の題はいろいろと物議を醸しそうだ。「酔って一線を超える」という題を見て、どんな光景を想像されるだろうか?酒に酔ってしでかした様々な過ちの記憶が、このタイトルによって甦るかも知れない。
上司や恩師とケンカをしてしまった… つい本音が出てしまい仲間と気まずくなった… 男と女の超えてはならない一線を超えてしまった… 。言い訳をしておくと、それは「あなた」のイメージであって、「わたし」のイメージではない。私がこの題をつけたのは、まさに「酔って一線を超えてしまった人々」の話をしようと思ってのことである。
ペンテコステ前夜の弟子たちの内面については、先週、先々週の礼拝でも話してきた。復活後40日間共にいてくれたイエスが、天に昇ってしまい再び不在となった。今度は自分たちだけで、イエスが教え示されたことを伝えていかねばならない…。それは譬えて見れば、運転免許取り立ての人が、教官を隣に乗せずにひとりで初めて公道での運転に臨む時の不安… そんな心境に似たものがあるかも知れない。人生には不安や心配、恐れを抱えながら、それでも新たなフェーズ(局面・段階)を迎えねばならないことがある。
旧約の箇所は、エジプトを脱出したイスラエルの民に、モーセを通して律法(十戒)が授けられる、その冒頭の場面だ。これまでは「神の救いの物語」であった。しかしここからは、その「救われた民がどう生きるか」という物語に変わる。「神に救ってもらった人々」が、「その神に従って生きる人々」となる。こうして神の救済の物語は新たなフェーズに入っていくのである。
ペンテコステの出来事も同じ体験だと言える。昨日まではイエスに導かれ、教え示された道に従っていればよかった。しかし聖霊を導きを受けた今、大胆に神の救いとイエス・キリストの福音を語り出した。弟子たちは新しいフェーズに入ったのだ。
それを見た周囲の人々は、「やつらは酒にでも酔っているのだ」と言った。するとペトロが「今は朝9時だから酒に酔ってるのではない」と反論した。この反論はどうも説得力に欠ける。私は二日酔いで朝9時に酔っていたことが何度もある…閑話休題。ペトロは「酔っていない」と言うが、私は「彼らは酔っていた」と思う。ただし、強い酒(スピリッツ)ではなく、聖霊(ホーリー・スピリット)に。
語る弟子たちの表情はどんなものだっただろう?自信に満ちた堂々とした顔つきだっただろうか?私はむしろ追い詰められ逆に開き直ったような、「窮鼠猫を噛む」状態の表情を思い浮かべる。それはとてもまともな精神状態ではなかった、シラフではなかったと思う。そう、彼らは酔って一線を超えたのだ。
「この大切なことを、たとえ困難や迫害があっても、みんなの前で語らねばならない」人にはしばしばそんな心境に駆られることがある。もちろんそう思ったとしても、実行できないことの方が多い。しかし、時に自分でも不思議に思うくらい思い切って勇気を出せた体験もあるのではないか。そんな形で新たなフェーズに入ることができたのなら、そこに風が吹いていたのだと思う。その時、人は聖霊に酔って一線を超えるのだ。
人間の歴史の中に残されてきた様々な「よきもの」は、そんな「一線を超えた人々の働き」によってもらされてきたのではないだろうか。