『 わたしも!( # ME TOO )』

2019年8月4日(日) 平和主日
ヨシュア2:6-11,ルカ8:1-3

「ミートゥー運動」いうムーヴメントをご存知だろうか。セクハラ、レイプ、性的な嫌がらせや被害を受けた人々が、その被害を告発する運動であり、スマホやパソコンによるSNSを利用する形で始まった運動だ。

これまでそれらの被害者は泣き寝入りをさせられることが多かった。しかし文明の利器により、ひとりでは何もできなかった同じ体験を持つ人々が、つながり声を上げ始めた。「ME TOO」(わたしも!)というネーミングが象徴的だ。

この運動は大切なことを教えてくれる。ひとりの人間のできることはたかが知れている。しかしそこであきらめたのでは、同じ辛い体験を次の世代に再生産させてしまう。これまでの時代、そんな社会に風穴をあけてきたのは、並外れた勇気と行動力を持った個人であった。しかしこれからの時代は、名もなき小さな人々が、つながり声を上げ、社会を変えていくことができる。「ME TOO! わたしも!」とつぶやく(ツイート)だけで。

「ミートゥー運動」は女性たちから始まった運動だ。偉大な女性が始めたのではなく、ひとりひとりは平凡な市井の女性たちである。そこに新たな可能性と希望があると思う。

キリスト教も女性たちがいなければ始まらなかった宗教だ。何よりも、イエスの復活の証人は、男の弟子たちではなく、女性たちであった。イエスの弟子集団や初代教会の指導者の中にも女性たちがいたことが記されている。

今でこそ多くの働きの現場に女性の姿があるが、古代社会である聖書の時代に、このような女性たちの存在があることは画期的なことであったと思う。それはまさにイエス・キリストのもとでの共同体が「女は引っ込んでろ!」という形で人を区分けしない、誰もが尊重され用いられる開かれた共同体であったからだろう。

近代が女性たちの活躍を生み出すはるか前に、誰がこのような女性の働きを切り拓いたのか?私が思うにそれは、誰か有能な女性が(男になり代わって)切り拓いた、というのではなく、ひとりでは何もできなかった(させてもらえなかった)女性たちが、「わたしも」「わたしも!」という形で拓いてきたものではないかと思うのだ。

今日は平和主日。「平和を作り出す」というイエスの示す歩みを実現するために、欠かせないのが「女性の視点」からの関わりだと思う。「命を宿し、育み、産み出す」その働きを担うところからのまなざしである。ここで注意すべきことは、すべての女性が「命を宿し、育み、産み出す」役割を強いられているわけではない、ということだ。「女は子を産む機械」(元閣僚の発言)という考え方は論外だ。

しかし一方で、「命を宿し、育み、産み出す」働きは、女性にしかできないものである。そしてその視点からものを考えることは、人の命を「戦術の駒」のように扱う群の大将や司令官(その多くは男)の眼差しとは決定的な違いがあると思う。

「女性の視点」とは、生物学的・身体的に女性に生まれた人だけが持つものではない。「命を宿し、育み、産み出す、そしてその命を守る営みの大切さ」に目を開かれた者ならば、男性に生まれた者でも、それ以外の第3の性に生まれた者でも、誰もが持つことができるものである。

そんなまなざしを大切に抱きながら、自分に小さな力しかないことを知りつつ、それでもあきらめず、「わたしも!(ME TOO)」とつぶやくことのできる者でありたい。「平和を作り出す」ために。