2019年8月11日(日)
列王記上19:9-18、Ⅰペトロ3:13-18
「義のために苦しみを受けるならば幸いです。」とペトロの手紙は記す。「義」とは神さまの前での正しい行いのことである。正しいことをしているのに苦しむ。それは理不尽なことである。しかし世の中にはそのような理不尽が多くまかり通っていることも、私たちの知る事実である。
大変残念な現実であるが、そのような世界にそれでも救いや光をもたらすためには、たとえ苦しみを受けることになっても、義を求める人たちの存在が必要である。聖書はそのような人々を「幸いだ」と祝福するのである。
イエスもまた「義のために迫害される人々は幸いだ。天の国はその人たちのものだ」と言われた。この言葉は大変説得力のある言葉である。なぜなら、イエスこそ「義のために迫害された人」そのものだからだ。ペトロは「義のために苦しまれたキリストは、肉体は死に渡されたが、霊においては生きておられ、神の右に座っておられる」と記す。だからあなたがたも義のために苦しむことを幸いに思い、義に踏みとどまりなさい…そう教え勧めるのである。
しかし、そのように勧められたとしても、私たちがいつの場合・どんな場面でも「ハイ、そうですか」とその道に進めるわけではない。義を貫くことの大切さを知りつつ、実際にはそれができずに逃げ出す時もある。逃げる方が多いかも知れない。私たちには「義のために苦しむこと」その大切さを知りながら、その思いを貫けない本質的な弱さがあると思う。その弱さとは何であろうか?
旧約の箇所は旧約最大の預言者エリヤの物語である。バアル神に屈した悪王・アハブの過ちを指摘し批判したエリヤ。そのためアハブの迫害を受け、追われる身となる。エリヤは苦しみを避けるために逃げ出したのである。
ある日「エリヤよ、こんなところで何をしているのか」と問う神の声に対して、エリヤは答えた。「私はあなたのために忠実に闘ってきました。しかし仲間は倒れ、私はたった一人です」。ここに義のために苦しむことを避けようとする人間の弱さが示される。義のために苦しむ時、最も辛いと思うのは苦しみそのものではない。自分がたったひとりでその苦しみに耐えている、という孤独。それが私たちの弱さの中心にあるものではないだろうか。
神はエリヤに答える。「今すぐ国に帰り、闘いを継続せよ。あなたは一人で闘っていると思い込んでいるが、私はバアルに跪かない者を七千人残しておいたのだ。」あなたはひとりではない!神はエリヤにそう宣言された。その言葉に支えられて、エリヤは再び立ち上がり活動を続けた。
この箇所を読むたびに想い起こす出来事がある。会津の教会に赴任していたころ、脱原発運動に関わっていた。福島第二原発で、重大事故を起こし不安をかかえる原発が再稼働されようとしていた。運動の主宰者から「再稼働が審議される県議会に反対のFAXを送ろう」という呼びかけがあった。私もそれに応えてFAXを送ったが、何せ当時は原発政策により多くの見返りを受けていた福島県。その中で脱原発運動は小さな運動であった。多勢に無勢、「こんなことしても、きっと無視されて再稼働されるんだろうな…」という思いが胸をよぎった。翌日の新聞を見て驚いた。再稼働の審議が、反対のFAXが多数送られたことにより、延期をされたというのだ。自分に出来ることは小さくても、同じ志を持つ人がいることによって道が開かれることを教えられた。
私たち一人一人は小さな力しか持たない存在である。しかし「あなたはひとりではない。」という神の語りかけが信じられる時、苦しみが待ち受けていても義のために生きることができる。