『 わたしの隣人とは? 』

2019年8月18日(日)
出エジプト22:20-26,ルカ10:25-37

礼拝の最後、祝祷の前に、讃美歌21-93-6にある「派遣のことば」の6番目をいつも読んでいる。他の「ことば」が「あなたがたを(宣教に)遣わす」といった内容の聖句であるのに対、この6番目のものだけは「神と隣人を愛し、仕える」といった内容になっている。

「神を愛し、隣人を愛する」。それはイエス・キリストが教えられた最も大切な教えだ。「何が一番大切な掟ですか?」という問いに対して、イエスはこれらのという二つのことを答えられた。ではこの二つは別々のことかというと、コインの表裏のようなものなのである。

「神を愛する」といっても具体的に何をすればいいのか?礼拝を大事にするっことか?多額の献金をささげることか?「神を愛する」と言っても、神の実体は人間には分からない。

ここでもう一つの教えが関わってくる。「神を愛する」という振る舞いは、具体的には「隣人を愛する」という行為によって具体化する。私たちは神が命与えられた隣人を愛することを通して、神を愛するのである。ではその隣人とは誰のことだろうか?家族や仲間、私たちにとって自然と愛情が生じるような人々のことだろうか?

旧約聖書はその対象を明確に指摘する。「寄留者を虐待するな」「寡婦や孤児を苦しめるな」、それが旧約の教えである。「みなしご、やもめ、寄留者」それらはみな、社会の中で弱い立場の人々である。助けを必要としている人々を苦しめず、むしろ支え助けなさい。それが旧約聖書の命じる「隣人愛」である。

新約はイエスの有名な「よきサマリア人のたとえ」である。強盗に襲われた旅人に駆け寄り助けたのは、ユダヤ社会の指導者であった祭司やレビ人ではなく、ユダヤ人にとっては「敵」とも言えるようなサマリア人であった。「誰が私の隣人ですか?」と問うた律法学者にイエスはこの譬えを語り、「あなたも行って同じようにしなさい」と命じられる。

イエスにとって「隣人」とは、仲間・同胞・家族・身内だけのことではない。助けを求めている人は、たとえ普段関わりのない人であっても「隣人」なのだ。イエスはその思いに駆られて各地を旅して歩き、出会う人々の中で救いや助けを求める人々を「隣人」として受け入れ、愛された。

それは「わたしの隣人とは誰か?」といった、自分を固定化する視点(天動説視点)からは決して見えてこない。「わたしは誰の隣人となることができるのか?」といった視点(地動説視点)から見えてくるものなのである。

詠み人しらずのひとつの詩を想い起す。「友を得ようと出ていった。なかなか友は得られなかった。人の友となろうと出ていった。至るところに友はいた。」私たちも自分の視点を固定化せず、隣人と出会い、愛し仕える者となろう。