2019年9月22日(日)
ガラテヤ6:12-18
今年の恵老愛餐会(9/15)では、例年のように旧讃美歌を歌うだけでなく、過ごしてこられたその時代々々に流行っていた歌をいくつも歌った。生き生きと歌っておられる姿を見て、改めて過去の思い出の大切さを感じた。私たち人間は、そのような過去を懐かしみ生きる部分を持っている。
しかし聖書が私たちに推奨する信仰の歩みには、そのような過去を懐かしむ感情とは正反対の言葉が少なくない。「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ…」(フィリピ3:13)というような振る舞いが、信仰者の目指すべきものだ…そんな教えが、特に新約聖書には多い。
過去のことを懐かしむ心情が否定されているわけではない。しかし「過去の栄光」にしがみつくようなあり方に対しては、厳しくこれを批判される。「キリストの福音に生きるとは、そういうことではないのだ」と。
ガラテヤ書が記されるきかっけになった、あるひとつの問題がある。それが「割礼問題」であった。エルサレム周辺の教会と違い、異邦人の多く住む地域にあるガラテヤの教会。おのずと信者たちもユダヤ人以外の、異邦人の人が多くなる。彼らは、割礼を受けずにクリスチャンになった人々である。
ユダヤ人はみな割礼を受けていた。それが「神に選ばれた民」、ユダヤ人の「しるし」であり、彼らはそれを誇りにしていた。それ自体は悪いことではないが、その意識から異邦人を「汚れた人々」を見下す意識も生まれる。イエスはそのような高慢な民族意識を戒められたが、初代教会の信者の中には、そのような悪しき優越意識を捨てきれない人たちもいたのだ。
いつしかそんな人々が、「異邦人のクリスチャンは、洗礼を受けるだけではダメで、割礼を受けるべきだ!」と主張するようになった。自分たちの「過去の栄光」を誇り、異邦人にも自分たちの価値観を押し付けようとしたのである。これに対してパウロは、「人が救われるのに、割礼の有無は関係ない。大切なのはイエス・キリストを信じる信仰、ただそれだけだ!」と記す。過去の栄光にしがみつくのでなく、イエスのような愛に生きること、それこそが救われる道だ、と断言する。
なぜ断言できるのか?それはパウロ自身が、かつては強硬な律法学者であり、律法主義のの価値観を人々に押し付けていた人だったからだ。そしてそんな自分がイエスの愛の姿によって打ち砕かれ、本当の救いの喜びへと導かれた人だったからだ。かつて自分が誇りに思っていたユダヤ人エリートとしてのステイタスを、隣人への愛に生きぬたイエス・キリストと出会うことによって「ちりあくた(原意=便所に捨てるもの)」のように感じるようになった。過去の栄光を誇る自分のかつての生き方の虚しさを実感し、イエスによって作り変えられて新しく生きる者となった…それが彼の信仰体験だったのだ。
パウロは「割礼の有無ではなく、日々新たに創造されることだ」と説く。この「割礼」という言葉を「洗礼」と置き換えても同じことが言えるのではないかと思う。大切なのは、「過去に」洗礼を受けたかどうか、という事実ではなく、いまイエスと出会い、新しく生きようとしているかどうかなのだ。