2019年10月6日(日) 世界聖餐日
Ⅰテモテ6:2-12
世界聖餐日の礼拝に、Mさんの洗礼式が行われた。新たな主にある仲間の誕生を、心から喜び歓迎したい。受洗によって何かが変わるのだろうか?激変することは恐らくないだろう。MさんはMさんのままだ。しかし何も変わらないかというと、そうではない。人生にイエス・キリストというコア(芯)が出来るからだ。洗礼は決してゴールではない。聖書という地図と、イエス・キリストというコンパスを得て、人生の旅路を歩む、そんな歩みのスタートの時なのだ。
今日の聖書箇所は、エフェソの教会の新米伝道者であった若きテモテに宛てて、パウロが牧会のイロハを教えるために書いた手紙の中の一節だ。今日の箇所でパウロは「異なる教えを説く者」への厳しい批判を展開する。教会の中でしばしば起こるねたみや中傷、言い争い…それは「真理に背を向け、信心を利得の道と考える者からでるのだ」と。「利得」とはギリシャ語で「ポリスモス」、生計を得るとか、金儲けを表す言葉である。
たとえば、「洗礼を受けてクリスチャンになれば商売繁盛するよ」とか「ご利益があるよ」という自分の欲望にかられる心情は、本当の信仰ではない、ということである。その通りだと思うが、歴史を振り返れば教会もこのような過ちを繰り返してきた(中世の『免罪符』、西欧植民地主義の先鋒、日本基督教団の戦争協力、等々)。いずれも「信心を利得」と考える人間のあさましさから出たものだ。
しかしそんな教会の歩みの中から、それらの過ちを糺し、これを乗り越えようという動きも出てくる。それはイエス・キリストという芯があるからだ。パウロの示す「正義、信仰、愛、忍耐、柔和」(6:11)、それがイエス・キリストの道であり、イエスという芯から導き出される人間の歩みである。
「信仰の闘いを立派に闘い抜け」とパウロは教える。この言葉に私たちは気後れする。これを完全に「守らねばならない!」と迫られれば、息苦しくもなる。私たちは弱く、完ぺきではないからだ。しかし、そんなところから始めるしかない自分を認める。そしてイエス・キリストという究極の目標に向けての「途中」を歩む。それが大切なのだと思う。
「信心を利得」と考えることは間違いだとパウロは記した。しかし、では信心(信仰)とは、何の利得(利益)も私たちにもたらしてくれないのだろうか?そうではない。何を利得(利益)と考えるかで、その評価は変わってくる。パウロも「信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です」と記している。足るを知る、自らの欲望を見つめ乗り越える、そんな生き方の喜びを知ることこそが、ほんとうの「信心による利得」なのではないだろうか。
前橋教会のホームページには、トップページにこんな文章を載せている。
「わたしたちは、お金で買えるしあわせを提供することはできません。でも、お金では手に入らないゆたかさなら、どこで手に入れたらよいかを知っています。聖書に記されたイエス・キリストの教えや生き方。その姿を道しるべにして、人生の旅路を歩むとき、それらのものは、きっと与えられる…わたしたちは、そう信じています。」
イエス・キリストという師であり同伴者である存在に導かれ、ほんとうの「信心による利得」を求めて歩もう。