2019年10月20日(日)
士師記7:16-23,ヘブライ11:32-12:2
旧約の箇所は、古代イスラエルの士師(宗教的・政治的指導者)のひとりであるギデオンの物語である。300人の少数部隊で2万人の敵を打ち破った英雄であり、「ギデオン協会」(聖書配布伝道の団体)の名前の由来にもなった人だ。そのギデオンの話をしようと思っていたが、台風19号の被害拡大の中で予定を変更し、今回の災害に対する信仰者の課題について、3つのことをお話したい。
ひとつめは「隣人の痛みへの感性を持つ」ということ。台風が群馬にも直撃した12日(土)の夜から翌日にかけては、被害の全容がまだ分かっていなかった。前橋近辺は大きな被害もなく、予定されていた「弦による音楽礼拝」も予定通り行われた。しかしその後伝えられる被災地の状況を知るにつれ、そのエリアの広さに驚いた。東日本大震災(津波)も広大なエリアだったが、今回の災害(川の氾濫)はさらにそれを超えるものを感じる。
そんな中、結果的に被害の甚大な地域と軽微な地域に分かれている。例えば群馬は大きな川の氾濫はなかった。群馬地区の教会も信徒宅も大きな被害の報告は受けていない。こうした事実を私たちはつい「よかったですね。神さまに守られて感謝です」と言ってしまいがちである。しかしそれは大変不遜な態度ではないか。そんな風に言ってしまうと、被害に遭った地域の人々は「守られなかった」ということになってしまう。隣人の痛みへの感性が試されている。
ふたつめは、「持続する想像力を持つ」ということ。あまりに広大な被災地の復興には長い時間がかかる。大きな被害を受けなかった地域に生きる者として、何らかの支援の働きを続けたい。私たちの力には限りがある。小さな働きしかできないかも知れない。しかし「何もしない」のではなく、想像力を持ち支援の働きを継続したい。東日本大震災救援センター『エマオ」で、ボランティアたちの合言葉となっていたこんな言葉がある。「わたしたちは微力である。しかし無力ではない」。「持続する想像力」が問われている。
以上の二つは「隣人と共に生きる」という、キリストの道から出る信仰者の課題である。これに対して三つめは、このような災害の現実をどう受けとめるのか、といった信仰による心の持ち様に関する課題である。あまりにも過酷な被災の現実の中で、「神も仏もない」というつぶやきを漏らす人もいるだろう。そのように思ってしまう心情も理解しつつ、敢えてそのような状況の中で「それでも神を信じるとはどういうことか」を考えたい。
世界には自分の思い通りいかないことがある。それでも神を信じるとするなら、そのような信仰とはどういうものなのだろうか。逆説的であるが、「思い通りいかないことがあってもそれでも神を信じる」という信仰こそ、まことの信仰なのではないか、と思う。
ヘブライ書の箇所には、信仰によって勇敢に歩んだ人だけでなく、信仰によって歩んだが故に迫害・あざけり・虐待を受けた人の姿も描かれる。そしてしめくくりでこう記される。「この人たちは信仰の故に神に認められながらも、約束のものを手に入れませんでした」。約束のものが手に入らなくても、それでも神を信じる。それがまことの信仰だ。「それでも神を信じる」というところに「スッ」といかなくても、「それでも明日を信じる」ことができるならば、人は厳しい現実の中でも生きていける。