『 神さまが造られた世界 』

2019年10月27日(日)
創世記1:1-5,24-31a

教会暦ではアドヴェントから新しい節目に入るため、10月から11月にかける日々は「年末近く」にあたる。その10月最後の主日には「創造」に関する箇所が聖書日課として毎年選ばれる。

「神の創造のわざを思うのにふさわしい時」について、私たちがふつうに思い浮かべるのは年の初めである。まだ何も始まっていない真っ新な状態で創造に思いを巡らせるのが相応しいように思える。しかし教会暦・聖書日課では、色々あった年末、失敗や過ちや悲しいこと・苦しいことがあったその歩みの最後に、神の創造のわざを思い巡らせる。そこには何らかの意図があるのだろう。

創世記の冒頭は、神が6日間で天地を造られた物語である。この箇所が記されたのは紀元前6世紀ごろと言われている。古代社会の人々が信仰によって記した神話的表現だと言える。その創造神話の中で繰り返される言葉がある。「神はこれを見て、良しとされた」「見よ、それは極めてよかった」。つまり「神が造られた世界はすばらしい」と記される。

ところがこの物語が編纂された紀元前6世紀という時代は、ユダヤ人にとって決して「極めて良かった」という時代ではなかった。バビロン捕囚。ユダヤの歴史の中でも最も悲惨で屈辱的な出来事が起こった時なのである。

神を信じて従えば祝福を得ることができる…そんな素朴な信仰が木っ端みじんに吹き飛ばされるような状況。いわば信仰の危機の時代である。しかしユダヤ人たちは、そのピンチをむしろ自分たちの信仰を見つめ深めるチャンスとしていった。私たちが手に取っている旧約聖書の多くのものはこの時代に編集されたと言われている。

自分たちの生きている状況は決して「良い」と言えるものではない。むしろ最悪である。しかしそんな中にあって、「それでも神の造られた世界は、基本的にすばらしい」そう信じてこの苦しみの中を生きていこう…そんな思いを分かち合っていったのではないだろうか。

V.フランクルがナチスのユダヤ人強制収容所での印象的な体験を記している。ある日一日の仕事を終え、疲れた身体を引きずって宿舎に帰ると、仲間の一人が「いますぐ広場に出てこい!」と叫んだ。行ってみるとまさに今、まっ赤な夕日が沈もうとしている時だった。それを見つめていたひとりが言った。「世界はどうしてこんなに美しいのだろう」…。強制収容所という最悪の状況の中で、それでも夕日に感動できる心を持つということ。そんな思いを抱く人は「それでも人生にイエスと言える」とフランクルは言う。

創世記の「極めて良かった」という言葉にもそんな思いが込められているのではないか。そして、そんな創造のわざを、一年の初めではなく、いろいろあった一年の終わりに味わうことに、大きな意味があるのではないだろうか。

「このろくでもない、すばらしき世界」(by Suntory BOSS)。