『主の言葉を聞く』

2019年12月8日(日)
列王記上22:13-19,Ⅱペトロ1:19-2:3

今年のクリスマス飾り(モミ・ヒバの枝々)の整理作業でのひとコマ。作業が始まった途端、あちこちで「これはこうして!」「ここを切って!」「これは使えないから処分して!」と、作業慣れしている人から次々に指示が飛んだ。時には指示が正反対のこともあり、指示待ちの者は戸惑いを覚えた。誰かがボソッとひと言「こりゃぁ船頭多くして船、山に登るだな…」

何かに一生懸命に取り組むとき、私たちは何かと自分の思いを発信することが多くなる。しかし全員が指示を発信すると、かえって混乱を招くこともある。今年の伐り出し作業の中で、聞くことの大切さを学んだように思う。「信仰は聞くことにより始まるのです」(ローマ10:17)。アドベントの季節、改めて聞くことの大切さに心を傾けよう。

私たちの信仰生活は、神の言葉を聞くことに始まる。しかし神の言葉は、ほとんどの人にとってははっきりと分かる形では聞こえてこない。私たちは音声で神の言葉を聞くのではない。聖書に記された言葉から神のメッセージを感じ取るのである。

ただし、そこで気を付けなければならないことがある。それは、「聖書から神の言葉を聞く」というとき、そこで私たちが聞こうとしているのは本当に神の言葉・神からのメッセージなのだろうか?ということである。私たちはむしろ、自分にとって心地良い言葉、耳障りのいい言葉を聞こうとすることが多いのではないだろうか。

ごく希に、「今日の礼拝メッセージは心に沁みました。とてもよかったです」とお褒めをいただくことがある。ほめられてうれしくない人はいないと思うが、ここに落とし穴がある。褒められた語り手が、もっと褒められようとその人に「ウケる」言葉を語るようになってしまうならば、それはまことの神からのメッセージと言えるだろうか。

アハブ王は400人もの預言者を雇っていた。彼らは王に受けの良い、気に入られる言葉を「神の言葉」として語る、おかかえ預言者たちであった。しかしそんな中で、アハブには耳が痛い言葉であっても、示された真実を語る預言者が現れる。それがエリヤ、エリシャであり、今日の箇所に登場するミカヤもその一人である。

新約・ペトロの手紙では「聖書の言葉は自分勝手に解釈すべきではない」と戒められている。そうは言っても、日本とは文化も価値観も違う聖書の世界のメッセージを読み取るには、どうしても解釈が必要だ。唯一の正しい解釈があるわけではなく、みんな少しずつ勝手な解釈をしているのではないかと思う。大切なのは、自分の解釈の「正しさ」にしがみつくのではなく、「私も自分勝手な解釈をしているひとりなのだ」との自覚を持ち、自分とは異なる解釈であっても、それを「聞く耳」を持つことではないか。

今までに何人か、「私は聖書をちゃんと読んでます。お祈りもしています。自分一人でも信仰を保つことはできるので、礼拝に行かなくても大丈夫です。」と言われる人に出会った。自分をしっかりと持った強い人だなと思う反面、危なさも感じてしまう。「ひとり」の営みは、得てして「ひとりよがり」になってしまう傾向があると思うからだ。そこには「自分の聞きたい言葉だけを聞く」という「アハブの誘惑」が待ち受けているのではないだろうか。「ひとり」ではなく何人かの人と共に主の言葉を聞くことの大切さを思う。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)というイエスの言葉もある。

不完全な人間である私たちが、本当に神の言葉を聞くことができるのだろうか。完璧にはできないのかも知れない。それでも神からのメッセージを受けとめようとし続ける、その姿勢や振る舞いの大切さを思う。自分にとって都合のよい言葉だけを聞こうとする自分の中にある誘惑をしっかり見つめつつ、独りよがりにならず、仲間と共に、迷ったり立ち止まったり、間違ったりしながら、それでも主の言葉を聞こうとし続ける歩みを重ねよう。