『 み言葉により、天地はなれり 』

2020年1月5日(日)
イザヤ40:25-31、ヨハネ1:14-18

1年の初め、与えられた聖書の箇所を元に、この世界の「はじまり」の物語に思いを馳せよう。物事が新しく改まる新年は、そのようなことを考えるのにふさわしい季節である。

世界には様々な創造神話がある。多くは神々や動植物による創造、しかも元からある何かの素材を用いての創造であるのに対し、聖書の語る創造物語は大きく違う点がある。ひとつは「神々」ではなく、「ただひとりの神」による創造であるということ。もうひとつは、無から(混沌から)有を生み出す形の創造であるという点だ。

ヨハネ福音書がその冒頭で象徴的に語る天地創造の由来は、第3の特徴と言えるかも知れない。それは「言葉による創造」である。「万物は言によって成った。成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった。」

「言葉による創造」とは何か?それは創世記の冒頭、神が「光あれ!」と言われると、光があった…そのようにして、神の語られる言葉に呼応して、万物が創られていったということを表すのだろう。先ほど歌った讃美歌の歌詞であり、本日のメッセージのタイトルでもある「み言葉により天地は成れり」という言葉の通りである。

しかし「言葉による創造」とは、神が語られた言葉に呼応して個別の物質が生み出された、という外形的な対応関係のことだけを指しているのではなく、もっと本質的なことを示そうとしているのではないかと思う。それは私たち人間が言葉を用いる存在であることと大きく関わっている。

私たちはなぜ言葉を用いるようになったのか?それは自分の内なる思いを相手に伝えるため、もっと端的に言えば「呼びかけるため」である。呼びかけられた者はそれに対して応えようとする。この「呼びかけ」と「応答」という関係性を取り持つのが言葉の役割である。

「万物は言によって成った」というヨハネの記述は、「私たちは神から呼びかけられるものとして造られた」という自己理解を表しているのではないだろうか。「我思う故に我あり」とは近代主体的自我を表すデカルトの言葉だが、聖書の示す自我の受けとめ方はそれとは少し異なる。デカルト的自我では神の存在は必ずしも必要ではない。しかし「神から呼びかけられるものとして我あり」、それが聖書の示す「自我」である。

神からの呼びかけを受けとめ、それに応えようとする自分の歩みを考える…それが私たちの信仰であり、共に礼拝をささげる目的である。私たちには「神からの呼びかけ」は(直接の音声としては)聞こえない。しかしそれをしっかりと示してくれるものがある。それがイエス・キリストという存在だ。「言は肉となってわたしたちの間に宿られた。」(ヨハネ1:14)

人生には様々な苦難がある。しかしそんな時こそ、創造のはじめに思いを巡らすことが大切だと思う。創世記の創造物語が編まれたのは、バビロン捕囚の苦しみの中であったという。同じバビロン捕囚の中で活動した第2イザヤは、「我々は神に忘れられた」と嘆く同胞たちに「誰が天の万象を想像したかを見よ」(26節)と語り、「主に望みをおく人は・・・鷲のように翼を張って上る」(31節)と希望を示す。

私たちもイエス・キリストの生涯に現わされた「人となった神の言」を、大切な神からの呼びかけとして受けとめ、新たな年も力を得て歩みたい。


主を待ち望む者ははるかに
力を受けてのぼる
走り疲れず 歩みて倦まず
鷲のように のぼる

(『主を待ち望む者は』)