『 霊を注がれた人 』

2020年1月12日(土)
イザヤ42:1-9,ヨハネ1:29-34

1月6日は「公現日」。救い主イエスが異邦人(東方の三賢者)に現わされた日とされているが、もうひとつ、イエスの受洗を記念する日でもある。

洗礼とは、水を注がれることによってイエス・キリストに従う新しい歩みを公に表す儀式である。洗礼準備会では、それは「ゴール」ではなく「スタート」であること、そして「プールに飛び込むこと」だと言い続けている。泳ぐ前に泳ぎ方を完璧にマスターすることはできない。水に入ってから、最初はぎこちなく(水を飲みながら)、やがて徐々に泳ぐのがうまくなっていく…。そういうものだ。

一方、洗礼には水によって「罪を洗い流す」という意味も込められてきた。聖書においては「神の子」とされるイエスが、なぜ洗礼を受ける必要があったのだろうか。

実は共観福音書はイエスの受洗を記しているが、今日の箇所・ヨハネ福音書はその事実を記していない。バプテスマのヨハネが最初にイエスに出会った時に「見よ、世の罪を取り除く神の小羊!」と語ったとされる。イエスはすでに神の威厳を帯びていた姿として描かれている。ヨハネの描くイエスに特徴的な姿だ。

しかし、共観福音書と共通する部分もある。それは「霊(聖霊)が鳩のようにイエスに降った」という記述である。鳩は平和の象徴。ノアの箱舟の物語で、神さまと罪ある人間(ノアも含む)との和解を象徴する鳥でもある。「イエスこそ、平和の王にふさわしい」― そんな思いが込められているのであろう。

「霊を注がれた人」。この言葉から、どんな人の姿を想像されるだろうか?「霊」という言葉の持つつかみどころのないイメージから、得体の知れない、怪しいものを感じる人もいるだろう。霊感の極めて低い私も、霊(聖霊)に関する会話は、昔からどうもニガ手である。

そんな私であるが、以前ある先輩牧師が言われた言葉に深く納得したことがあった。「聖霊の導きとは、『気付かせてくれる』神さまからの導きではないでしょうか?」先輩はそう言われた。例えばさしたる根拠がないのに「これは大事なことだ」「これはしてはならないことだ」という判断ができることがある。そのような「気付き」こそ、私たちに与えられる「小さな聖霊の導き」なのではないだろうか。

イザヤの語る「霊を注がれた人」、それは頭脳明晰、勇気凛々、自信満々、精神にも肉体にも微塵もの揺らぎのない人… ではない。「傷ついた葦を折ることなく、ほの暗い灯心を消すことのない人」(イザ42:3)それがイザヤの示す「霊を注がれた人」の姿である。それは、私たちの信じるイエス・キリストの姿そのものだ。

私たちはイエスのようには生きられない。しかしその生き様と教えに触れて、生きる上で大事なことに「気付かされる」。その時私たちもまた「霊を注がれている」と言えるのではないだろうか。