『 あり得ないことを信じるこころ 』

2020年1月26日(日)
出エジプト33:12-23,ヨハネ2:1-11

「前橋教会信仰告白を作ろうプロジェクト」を進めている。これまで「神について」「イエス・キリストについて」のことばを募集してきた。多くの人が書いてこられたのが「いつも共にいて下さる神(キリスト)」という言葉であった。

「神我らと共にいます = インマヌエル」それは聖書の示す私たちの信仰の重要な部分であるが、よくよく考えてみると「神(キリスト)がいつも共におられる」というのは、私たちにとって必ずしも喜ばしいことではないのではないかと思う。なぜなら、私たちの日常は、決して神・キリストに喜ばれる歩みばかりではないからだ。

旧約の聖句では、出エジプト~カナンへの旅の途中で、モーセが神さまに「どうか私たちと共に歩んで下さい」と懇願する場面が描かれる。なぜ懇願したかというと、直前のところで神は「もうお前たち(イスラエル)とは共に歩まない!」と宣言されているからだ。

「金の子牛」事件が起こり、神は民の“かたくなな心”にほとほと呆れ、「これ以上共にいるとこの民を滅ぼしてしまうかも知れない」と思われた。それで「もう一緒には歩まん!」と宣言されたのである。しかしモーセは神に共に歩むことを懇願する。それは、そのような過ち多き民だからこそ、神が共に歩んで下さらなければ一歩たりともふさわしく生きることができないということを知っていたからである。

神は思いを改め、民と共に歩むことを宣言される。その代わりにひとつの重要な取り決めが言い渡される。「人は神の顔を見ることができない。神の顔を見た者は死ぬ」という宣告である。こうして人々は共にいる神を見ることができない、という状態に置かれるのである。

共に歩まれる神を見ることができない ― これはある意味「背馳」である。しかし、私たち人間の信仰の実感でもあるのではないか。見えないけど共におられる神。そのまなざしを感じる(信じる)ことで私たちはかろうじて道を大きく外れずに進んでいけるのではないか。

新約は「カナの婚礼」の箇所である。婚宴でぶどう酒が不足した時、イエスが「水がめに水を入れよ」と命じられると、それが上質のワインに変わった、という「奇跡物語」である。この記述は何を示すのか?神の子・救い主としての「力」を誇示するものなのだろうか。

「三日目に…」と記されていることに注目したい。「三日目に起こった奇跡」、この言葉から私たちが連想するのは、イエスの十字架の死と復活である。「復活」もまた現代人にとっては「あり得ないこと」である。しかしそのあり得ないことを信じる、そこからキリスト教は始まったのだ。

この出来事の中で、イエスに命じられて水がめに水を入れた人たちがいたことに目をとめたい。彼らとて「これをすれば奇跡が起こる」という確信があって行動したわけではないだろう。「こんなことして何の意味があるのだろう?」と思ったかも知れない。しかし自分の思いだけで決めつけてしまわずに「おっしゃる通りに…」と従った。行動を起こす人がいて、はじめて奇跡も生まれるのだ。

こうして水が上質のワインに変わる。この「水」とは何なのだろう?それは私たちひとりひとりのことではないだろうか。それぞれの存在は「ただの水」に等しいような私たち。しかしそんな自分をあきらめず、それでも共に歩んで下さる神を信じるとき、あり得ないことが起こるのだ。

日本語では「あり得ない」という言葉を感謝の言葉として用いる(「有り難し」「有り難う」)。あり得ないことを信じるこころ ― そんな信仰を、感謝をもって受けとめよう。