『 真理はわれらに自由を与える 』

2020年2月9日(日)
ヨハネ8:21-36

ハーバード大学のスクールモットーは“VERITUS”。「真理」を表すラテン語である。元は会衆派の神学校であり、ヨハネ福音書のイエスの言葉「真理はあなたたちを自由にする」から取られたスクールモットーである。

真理とは何だろう?そこには二種類の真理がある。一つは「客観的(科学的)真理」。地球が丸い球体であり、自転しながら太陽の周りを公転している(地動説)、というのがこの類の真理である。しかし中世では頑迷な教会の教えの元で、この考え方は異端と退けられた。宗教裁判で自説の撤回へと追い込まれたガリレオは「それでも地球は回る」と言ったという。「私がたどり着いたこの真理には、絶大な教会の権威をも凌駕する力がある」という信念が表されている。

一方、聖書の示す真理とは、いつでも誰でも必ずたどり着ける客観的な真理とは少し異なるものである。それは出会った人・信じる人にのみ通じる「主観的(主体的)真理」と呼べるものであろう。誰にでも当てはまるとは限らない、しかし出会った人(信じた人)にとっては、人生がひっくり返されるような体験を与えるものである。

イエスのもとを訪ねたひとりの金持ちの青年のエピソードがある。永遠の命を得るには?と問う青年に対し、イエスの最初の答えはそっけない。「殺すな、姦淫するな、偽証するな。父と母を敬え。」それは十戒の教えであり、ユダヤ人の常識であった。

「そんなことは昔からやってます!」と気色ばむ彼に、イエスは二つ目の言葉を投げかける。「あなたに足りないものがある。持ち物を売り払い、貧しい人に施し、私に従になさい」。彼は悲しみながらイエスの元を立ち去った。多くの財産を持っていたからである。

イエスが語り示される真理は、このように人の心を揺さぶり、問いかけ、チャレンジする。それは私たちが真理を「獲得する」というより、真理から「問われている」という体験である。しかし、ある意味その厳しい経験のその向こうには、それまでの常識的な生き方では知ることのなかった本当の「いのちの喜び」が広がっている… それが「永遠のいのち」であり、真理によって与えられる自由である。

米国人の作家、ロバート・フルガムは、「マザーテレサを見ていると、叱られるような気がしてくる。しかし同時に励まされるようにも思う」と述べている。彼女の生き方から、至らない自分が問われるのと同時に、人間の素晴らしい可能性を教えられるというのだ。イエスの真理も同じ経験をもたらし、そして自由を与えてくれる。それは自分の好き勝手に生きる自由ではなく、「愛をもって互いに仕える自由」(ガラテヤ5:13)である。