2020年3月1日(日) レント第一主日
出エジプト17:3-7,マタイ4:1-11
地区教師会で、礼拝学を研究してこられた教師から、レントからイースター、そしてペンテコステに至る教会暦の発題をうかがった。古来よりこの教会暦のつながりは一つの流れをもって構成されてきたという。アドヴェントの期間が30日足らずであるのに対し、レント~イースター~ペンテコステは94日間にも至る。この一連の流れは「灰から光へ、そして炎へ」とのイメージでデザインされてきたのだという。
灰の水曜日より始まるレント(受難節)。旧約聖書において、灰は苦しみ・悲しみを表す所作としてしばしば登場する(ヨブ記、エステル記等)。それはまさに、イエス・キリストの苦しみに自分自身の思いをシンクロさせてゆく歩みである。
しかしその苦しみもいつまでも続くものではない。苦しみをくぐり抜けたその向こうに、朝の光と共に訪れるイースターの喜びがある。それが「灰から光へ」の歩みである。このことは言い換えれば、私たちが本当の喜びにたどりつくには、その前に灰の苦しみを通らなければならない… そんなことを示しているのかも知れない。
エジプトの奴隷から解放されたイスラエルの民は、約束の地・カナンに移り住むまでに40年にわたって荒野の旅を続けなければならなかった。その間、人々は今日の聖書箇所のように何度も神を呪い、モーセを悩ませた。その傲慢な「かたくなな民」が、神にすべてを委ねただ神のみを頼る民となるために、40年の「灰の苦しみ」が必要だったのだ。
一方イエスは宣教活動に入られる直前、荒野で試練に遭われた。これから進んでゆく宣教活動、その中で受けるであろう試練や誘惑、そのことに耐え得るこころと身体を作るために、あらかじめ自ら進んでサタンの誘惑に身を晒されたのだ。
サタンの巧みな三つの誘惑に対し、イエスは旧約聖書に記された神の言葉で対抗し、その試練に打ち勝たれた。この「灰の苦しみ」をくぐり抜けたイエスの、その後の歩みは、きっと救いの喜びに満たされた「光の日々」だったに違いない…そう思いたいところだが、実際はそうではない。
もちろんイエスとの出会いによって「光の喜び」を感じ受けとめて、救われた人はたくさん存在した。しかしイエス自身には、荒野の試練よりももっと過酷な、さらなる「灰の苦しみ」が待ち受けていた。ユダヤ教指導者たちの憎悪を一身に浴び、最終的には十字架に至る道である。
本来大きな喜びにつながるはずの世界を伝え、広めていくためには、大変残念なことであるが、イエス自身は「灰の苦しみ」を受けねばならなかった。その苦しみの意味を知る人こそが、本当の「光の喜び」を知ることができる。そしてその光に支えられた体験こそが、やがて燃え上がる炎の時へと私たちを導いてくれるのである。
♪YAHWEH(主よ) U2
ヤハウェ(主よ) ヤハウェ(主よ)
子が生まれる前には いつも痛みがある
ヤハウェ どうか教えて欲しい
なぜ、夜明け前は
こんなにも暗いのですか?