2020年3月22日(日) レント賛美礼拝
使徒言行録13:44-47
今日の賛美礼拝は、アルゼンチンの賛美歌作家、パブロ・ソーサさんの曲を中心に行なっている。南米のいろんな民族音楽を用いた賛美歌をたくさん創作しておられる。ソーサ氏がこのような賛美歌創作の活動を始めのたは、ひとつの出会いがきっかけだった。
半世紀以上前、スリランカの神学者、D.T.ナイルズ氏がアルゼンチンに来られ、スリランカやインドの旋律を用いた賛美歌を紹介してくれた。みんながその美しいメロディにうっとり聴き入っていると、ナイルズさんは突然言われた。「さぁ、次は君たちの番だ。君たちの国の賛美歌を歌ってくれたまえ」。
若きソーサ氏はとっさに答えた。「私たちの民族音楽は教会の礼拝にはふさわしくありません」。それでも何か歌えと言われるのでソーサ氏は仲間と一緒に、賛美歌ではないアルゼンチンの民謡を一曲披露した。それを聴いたナイルズ氏は言われた。「すばらしい歌だ。あなたがたはとてもすばらしい歌を持っている。 なのにどうしてこれを礼拝の中で用いないのか。それはおかしなことではないか。」
ナイルズ氏の語った印象的な言葉がある。「イエス・キリストの福音は、鉢に植えられて宣教師たちによって持ち込まれた。我々はその苗を鉢から取り出して、自分たちの大地に根付かせなければならない。」
日本で歌われる讃美歌の多くは西洋由来である。バッハをはじめとする教会音楽の影響も強い。それらの音楽を否定するのではないが、それとは雰囲気の違う音楽に対して「そんな音楽は教会にはふさわしくない」というのは決めつけだ。南米の民族音楽の賛美歌があってもいい。日本民謡の賛美歌があってもいい。そう思う。
南米の賛美歌のもうひとつの特色は、歌詞に込められたメッセージだ。長く続いた軍事独裁政権の時代、民衆の側に立って歩んだ教会の歴史があり、その中から生まれた歌にもそれが反映している。戦争と平和、貧困、差別、環境破壊などの問題に対して、信仰的に関わっていこうというメッセージが含まれた力強い歌が多い。歌いながら心が熱くなってくる。新たな力が与えられる。
初代教会でも、パウロたちの異邦人伝道に対して、ユダヤ人信徒たちから「それは従来の伝統やしきたりにそぐわない道だ」というクレームがつけられた。それに対してパウロは「神の言葉はまずユダヤ人に語られた。だがあなたがたはそれを拒み、値なきものにしてしまった」と語り、「今日からわたしたちは異邦人の方に行く!」と宣言した。それはイエス・キリストの福音が世界へ広げられるきっかけでもあったのだ。
異邦人の信仰者がいるところでは、異邦人のしきたりで福音が語られる。そこでは異邦人の歌が用いられて福音の種が運ばれ、芽を出し根を張っていったのだ。