2020年4月26日(日)
ヨハネ福音書21:15-19
弟子たちがイエスと共に過ごした3年間の日々、それはそれまでガリラヤの庶民であった彼らにとって特別な日々だったことだろう。イエスと共に過ごした中で感じたやりがいや興奮、不安や恐れ。十字架の出来事の絶望感と、復活を知らされた喜び・希望。それは彼らにとって「日常」ではない、「非日常」の連続であった。
しかしその激動の日々も一段落し、ガリラヤに戻って何をするでもなく集まっていた...それが今日の箇所の弟子たちの置かれた状況である。ペトロは言う、「私は漁に行く」。それは非日常から日常へと戻ってゆく姿である。
私たちはいま、日常に戻るということがどれほど尊く大切なことであるかを実感している。日常があるのが「あたり前」だと思っていた時は、日常の大切さなど考えることもなかった。しかしいま、日常から遠ざけられることによって、それがどんなに「有り難い」ことだったかと感じさせられる。
そんな私たちにとって、「私は漁に行く」と言って日常に戻るペトロの姿はまぶしく思える。イエスと共に過ごす中でいくつも重ねてしまった過ちや失敗...そんな破れた経験を抱きながら、それでも日常を取り戻そうとする姿はカッコいいなーと思う。
漁に出かけたペトロたちであったが、その日は何の収獲もなかった。そこにイエスが現れ、「舟に右に網をおろしてみなさい」と言われた。弟子たちが言われたようにすると、引き上げられないほどの魚が獲れた。何の収獲もない「からっぽの人生」であっても、「からっぽの墓」からいのちの歩みを始められた方が共にいることによって大きな収獲が与えられる...この奇跡物語はそんなことを示している。
イエスと弟子たちは岸に上がり、共に朝の食事をした。不思議なことが書いてある。岸に上がってみると、既に炭がおこしてあったのである。一体誰が?何のために?聖書には何も記されない。でもこの炭火があったおかげで、イエスと弟子たちは遅滞なく朝の食事をすることができたのだ。炭火をおこす...大した仕事ではない。でもみんなの役に立つ、ありがたい仕事である。それを誰にも知られず、名前も告げずに、実行していた人がいたのだ。
「みんなのために名もなき人が行なう、ささやかだが大切な仕事...。そんな働きのことを内田樹さんは「雪かき仕事」と呼んだ。「アンサング・ヒーロー」という言葉がある。歌に歌われない英雄のこと。歴史に名を残すのではなく、目立たない形で大切な働きを担う人のことを表す言葉である。今回のような危機の時、有能なリーダーがひとりいればいい、ということではなく、「雪かき仕事」を担う「アンサング・ヒーロー」こそが、あちこちに必要なのではないかと思う。私たちは聖書の記述に基づき、そのような働きのことをこれからは「炭火仕事」と呼ぼう。
教会の仲間の中にも「炭火仕事」を担って下さる人がいる。マスクや消毒液が品薄で手に入りにくい中で、「教会の活動のために必要でしょう」と届けて下さった方。礼拝に出られない方が同じ時間に礼拝をささげられるよう、インターネットの配信システムを作って下さった方。インターネットの環境のない方にもメッセージを届けようと週報などを配って下さる方。月定献金や、各家庭でささげる礼拝の席上献金を、週の半ばに届けにきて下さる方。困難な中、自分の生活だけでも大変な時に、教会に関わるみんなのために心を配り、必要な働きを担って下さる、炭火仕事の働き人たちだ。
「私はなにもできません...」と言われる人がいるかも知れない。決してそんなことはない。誰もが担える炭火仕事がある。それは「祈り」だ。大変な医療現場で働く人を覚えて祈る、残念ながら感染してしまった人やその家族を覚えて祈る、世界中で感染症克服のために懸命に働く人のことを覚えて祈る、病気のことで差別や排除がなされないことを願って祈る、そして教会に関わる仲間たちのことを覚えて祈る。すべての人の、日々の日常が取り戻されることを覚えて、祈る。自分のためだけに祈るのでなく、隣人のことを覚えて祈る。その祈りこそが、私たちみんなが担える、ささやかで、けれども尊い「炭火仕事」なのだ。行動を起こすことができる人はそれを行えばいい。でもそれが困難な人は、祈るだけでいいのだ。
炭火仕事を担おう。雪かきは春が来れば雪は消える。しかし炭火の炎は消えない。消えたように見えて、静かに長く続いてゆく。その火種があれば大丈夫。私たちはきっと、それぞれの日常を取り戻してゆける。そのことを信じよう。