2020年5月3日(日)
ヨハネ福音書21:15-25
ヨハネ福音書では、イエスはよみがえった後、弟子たちの元を離れたり、また現れたりを繰り返している。マリアには「私にすがりつくのはよしなさい」と語り、トマスには「見ないで信じる者は幸いだ」と語られた。そしてやがてイエスは弟子たちの元から離れてゆくのである。
イエスは弟子たちを見放されるのか?そうではない。離れていることは、必ずしも絆を失わせることにはならない。巣立ちの季節を迎え、親の元を離れていくこども。しかし離れていても、いや離れているからこそ、その絆は深まるのである。
そんな「巣立ち」を前に、イエスとペトロが語り合ったのが今日の箇所だ。イエスはペトロに尋ねられる。「あなたは私を愛しているか?」ペトロが「はい愛しています」というとイエスは「私の羊を飼いなさい(私を信じる人々の世話をしなさい)」と言われた。こんなやりとりが3度繰り返される。
3回という回数は、十字架の直前にペトロが、わが身を守ろうとして「あんな人のことは知らない!」とその関わりを否定した回数と対応する。3度にわたって「私を愛するか?」と尋ねられたペトロ。その心境はいかばかりであっただろうか。
いたたまれない気持ち。「もう勘弁して下さい。」と泣きたくなるような感情を抱いたのだと思う。果たしてイエスはペトロを咎めておられるのか?3度にわたって拒絶した情けない姿への報復・見せしめとしてこのように尋ねられたのだろうか?
そうではないと思う。イエスはペトロを責められたのではなく、赦しておられるのだ。そうでなければ「私の羊を飼いなさい」とは言わないだろう。イエスを裏切ったその思いの奥底に、まだイエスを慕う気持ちがあったことをよく知っておられたのだ。
しかしこの「赦し」のやりとりは、ペトロにとって決して心地よい、うれしい体験ではなかった。どちらかというと辛い気持ちが沸いてくる、そんなやりとりだった。しかし、辛いけど、ありがたい。後で感謝の思いが溢れてくる、そんなやりとりだった。
罪の赦しの経験とは、本質的にそういうものだと思う。「赦し」とは「水に流す」ことではない。なかったことにするのでなく、むしろその過ちをちゃんと見つめ受けとめて、その上で悔い改めて新しく歩むことを促すのである。そのような新しい歩みを目指す者を、私は決して見捨てない、祝福するよ… それがイエスの「赦し」である。
赦すだけでなく、イエスは託された。「私の羊を飼いなさい」そんな風に信じる人々の世話をペトロに委ねられたのである。それはある意味、苦難の道を歩ませることでもあった。しかし本当に赦しの経験を得たものは、その道を行けるはずだ…これからは私に頼らずとも、自分の頭で考え、自分の足で歩んでいけるはずだ…そんな風にペトロを信頼しておられたのだと思う。
日本には「仏の顔も三度」という諺がある。仏さまのような慈悲深い方でも赦してくれるのは3回までだぞ!だから自分を厳しく律して生きねばならないのだぞ!…といった教訓と共に語られてきた言葉である。はたして、イエスの顔は何度なのだろうか?
私は信じる。イエスの赦し、イエスの愛は何度でも与えられる!と。決して罪や過ちを見過ごしにされるのではない。ある意味で厳しくその罪・過ちと向き合うことを求めつつ、けれども悔い改めて新しく歩もうとする者を、イエスは決して見放さない、見捨てない。その人を信じ、そして赦すのである。
私たちは過ち多き存在である。そんな私たちが今、これまで経験したことの内容な不安な状況(コロナ禍)の中を生きている。判断を間違い、過ちを犯すことがあるかも知れない。そんな中を「決して過ちをおかしてはならない!そんな姿を人に見せるものか!」と緊張し、身構え、萎縮するのでなく、また過ちをおかしてしまった隣人をいたずらに咎めるのでもなく、不本意に犯してしまう自分と隣人の過ちに気付き、悔い改める者、赦し合える者でありたい。そして、「こんな私」にも注がれているイエスの愛を信じ、新しく歩む者でありたい。