『 うめきつつ勝利に向かう 』

2020年5月17日(日)
出エ33:7-11,ローマ8:26-30,ヨハネ16:33

人間は勝負に勝つことが好きだ。ジャンケンに勝てば喜び、好きなチームが勝てば乱舞し、ビンゴゲームで数字が揃えば満面の笑顔で景品を取りに走り出す。しかしすべての勝利を喜べるわけではない。バドミントンの桃田賢斗選手は、尊敬する中国のレジェンド選手を破った時「淋しさを感じた」と語った。相手への敬意や憧れが、勝利の喜びを苦いものに替えたのであろう。

今日は「わたしは世に勝っている」というイエスの言葉に導かれ、聖書からのメッセージを受けとめたい。

旧約はモーセの物語。エジプトを脱出し「約束の地」に向かうイスラエルの民を、ヤハウェが「臨在の幕屋」によって導かれたことが記される。「神さまはそのように、いつもイスラエルと共にいて下さったんだよ…」とも読めるが、事はそんなに単純ではない。実はこの箇所はイスラエルにとって大失態とも言える事件の直後に置かれているのだ。

金の子牛事件。十戒を授かるために山に登ったモーセ、その不在の期間に人々は金の子牛を作りそれを拝み始めた。「目に見えない神より、目に見える像に頼ろう」という心理である(偶像崇拝)。モーセはその振る舞いに激怒し、十戒の板を投げつけて金の子牛像を砕き、神に赦しを請い求める。

はたしてヤハウェは民に罰を与えられたか?そうではない。「今は民を裁かない。いつか時が来れば彼らを裁く。あなたは今後も民を率いて、約束の地を目指しなさい」と語られる。しかし同時に神は「ただしわたしはあなたがたと一緒に行くことはしない」と宣言された。民があまりにかたくななので、一緒に歩むと滅ぼしてしまうかも知れない。神は民の蛮行に腹を立てられるが、それでもイスラエルを心から愛してもおられる。だからずっと一緒にいるのではなく、少し離れて(臨在の幕屋から)民を導かれるのだ。

新約・ヨハネはイエスの有名な言葉である。「勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」。『世』とはヨハネ福音書の大切なキーワード、イエスを十字架につけた人々の価値観・考え方を表す言葉である。。その『世』の力はこれからもあなたがたを悩ませるだろう。しかし恐れるな、私は『世』に勝っているのだから…そうイエスは語られるのである。

ここで想像してみたい。イエスはこの言葉を、どんな面持ちで語られたのか?力強く、『世』を打ち倒す自信に満ちて語られたのだろうか?

想い起したい言葉がある。「神は独り子を与えるほどに世を愛された。信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。神が独り子を遣わされたのは、『世』を滅ぼすためではなく、救うためである。その神の意志を身に受けて『世』に来られたイエス。そのイエスが「私は『世』に勝っている」と宣言されるのである。悲しかったのではないか。うめきながら語られたのではないか。「臨在の幕屋」にとどまりながら、「かたくなな民」をそれでも愛し導かれたヤハウェの神と同じような気持ちで、そう言われたのではないかと思う。

ローマ書は聖霊の導きについて語るパウロの言葉である。その中で「私たちはどう祈るか知らないが、霊自らが言葉に表せない『うめき』をもって執り成して下さる」と記している。聖霊の導きとは、高らかに力強く自信たっぷりに注がれる、というのではなく、「うめきながら執り成してくれる」というのである。それはどんなピンチも跳ね除ける「天下無敵の神」ではなく、人々の悩み・弱さに寄り添い、共に悩んで下さる「共苦する神」の姿である。

現在のコロナウィルスの状況を、戦争との比喩で語る人がいる。「今は戦時中だ。不自由を耐え忍び、皆の力を結集し、コロナとの闘いに臨んで行こう。ウィルスを根絶し、勝利を目指そう!」という言葉が躍っている。しかし多くの医療関係者が冷静に語るように、ウィルスは根絶できるものではない。時間をかけて免疫をつけ、共存していくことしか道はないと思う。「コロナとの闘いの勝利」とは、ウィルスの根絶でも感染者の排除でもない。「感染したとしても何とかできる世界」をゆっくりと目指すことである。

特効薬やワクチンの開発、医療体制の整備… これは専門家の働きなので、それを応援する。経済活動に身も心も擦り減らしていた生き方を見直し、生き物としての免疫力・生命力を高めてゆく。何よりも大切なのは、感染した人を切り捨てず、距離を保ちながらも大切に受けとめ、共に生きようとしていくことである。イエスが今ここにおられたら、そのような道を目指されたに違いない。

もちろん重症化の恐れがある。道の途中で悲しみや苦しみを体験するかも知れない。そんな中を私たちはうめきながら歩むしかない。聖霊の働きはそんな世の重荷を共に負いつつ、うめきながら勝利を目指すのである。そんな聖霊の導きに、私たちの「いま」を託そう。