『 神の約束を信じて 』

2014年11月30日(日)
(アドヴェント=待降節に入る)
エレミヤ33:14-16、
ヤコブ5:7‐11

今年もアドヴェント(待降節)を迎えた。教会の一年の暦が新しくなる季節である。考えてみればこの節目の区切り方は不思議な感じがする。西暦と同じようにクリスマス(降誕日)が区切りなら分かりやすい。しかしそれに先立って4週間の待つ時間から時が始まる。キリスト教とは、「待つ宗教」だと言えるかも知れない。

私たちが「何かを待つ」という時、その先に喜びが先取りされている場合にはそれは至福の体験となる。けれども時と場合によっては、それは大変辛い経験ともなり得る。例えば恋人同士の待ち合わせ。30分前はソワソワ、15分前はワクワク、定刻はドキドキ、15分過ぎは疑問、30分過ぎは怒り。たった1時間でこのようにも心境は変化する。

クリスマスの時期になると歌った以前のこどもさんびかに、こんな歌詞があった。
♪“むかしユダヤの人々は、神さまからのおやくそく、
とうとい方のお生まれを、何百年も待ちました。”
「これはすごいことが歌われている!」そんな風に思ったことがある。自分の生きている間に約束の実現を見ることができないかも知れない。そんな中を「何百年も待つ」信仰。それがいにしえのユダヤ人の心境ではなかったか。

ではその「何百年も」待つ間、彼らはやがて訪れる救い主の到来という喜びに満ち満ちてその期間を過ごしただろうか。むしろほとんどの場合、そのような思いとは真逆な心を抱いて生きていかざるを得なかったのではないか。待てど暮らせど神の救いは与えられない。その中で抱く憂鬱、失望、そしてあきらめ。そんな思いを引きずりながらそれでも待ち続けた人々だったのではなかったか。

今日の箇所で預言者エレミヤは語る。「見よ、主がイスラエルの家に恵みの約束を果たす日が来る!」エレミヤは喜びの表情でこの言葉を語ったのだろうか。彼はバビロン捕囚の時期に活動した「涙の預言者」である。そのような姿は想像し難い。しかし目の前にある状況が絶望的な状況だからこそ、最後にすがるのは神の約束しかない。そんな信仰に基づいて彼は語ったのではないか。

ヤコブ書では「主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい」と奨められている。「再臨遅延」という現状をどう受けとめるか。これが初代教会のひとつの課題であった。「再臨」というと何か雲をつかむ話の用であるが、要するに「神の救いの時」ということである。

神の救いの到来が遅れている。この信仰の危機を、昔の預言者にならって、神の約束を信じてひたすら忍耐して待ちなさい、とヤコブは奨める。私たちはエレミヤに比べて、あるいは「何百年も待った」ユダヤ人に比べて、はるかに信じる確かさに近いところに立たされている。なぜなら、彼らはイエス・キリストの誕生を知らなかったが、私たちはそのことを知っているからである。神の約束を信じて待ち続ける… そんな信仰の歩みを大切に生きていこう。