2020年5月31日(日) ペンテコステ礼拝
使徒言行録2:1-11
ペンテコステ。それは弟子たちに聖霊が降り、教会の宣教が始められていった日である。「霊」というと「背後霊」とか「悪霊」といった得体の知れないものを想像するかも知れないが、聖霊とはそういうものではない。目に見えない神さまの導きのことである。
誰の人生にも「どうしてあの時、こう考えたのだろう?あのように決断できたのだろう?」ということがあるはずだ。その考えや決断をうながしてくれたもの…それを聖霊の導きだと受けとめる。その時には分からなくてもいい。後でふり返って分かるもの、気付きを与えてくれるもの、それが聖霊の導きである。
使徒言行録はペンテコステの聖霊の導きを、二つの事象で表している。炎と風である。炎は冷たくなっていた、冷え切った「石の心」に、再び血の通う温かさをもたらしてくれる(肉の心)。聖霊の炎はその温もりを取り戻させてくれる。ペンテコステのシンボルカラーは、その炎を表す「赤」である。
いっぽうの風。目に見えないけど確かに吹いている風。昔の人はその風の中に神の導きを感じた。旧約の「ルアッハ」も新約の「プニューマ」も、その意味は「風」であり「息」であり「聖霊」である。神の息である霊を吹き込まれることによって人は生き、息が取り去られると死を迎える。聖霊とはいのちを与える息のことである。
前橋に住むようになって7年、つくづく感じるのは「からっ風」の強さだ。冬の晴れた日の夕方など、「台風か!?」と思うような突風が吹き荒れる。昼間の温まった空気が上昇することにより生まれた低気圧に向かって、赤城の冷たい空気が流れ込んでくるのである。前橋の人は、年中ペンテコステの疑似体験をしていると言える。
太陽の熱によって、地表に空気の多いところと少ないところが生じる。するとその格差をならそうとして空気の流れが生じる。これが風である。風は高いところから低いところに吹いてくる。格差をならそうと吹いてくる。これはとても象徴的な出来事である。
神さまの恵みはこの世の最も低いところ、低くされた人の所に真っ先に与えられる…そのようにしてこの世の不均衡や理不尽を神は是正し、新しい物語を始めて下さる…そんなことをペンテコステの出来事は示している。
ペンテコステの風が吹いたのは、弟子たちが弱り切った状況だった。逆に弱みを見せまいと強がる人には風は吹いてこない。いや、その人にも風は吹くのだが、それを感じることができないのだ。風を感じるにはどうすればよいか?簡単なことだ。自分の空しさを認めればいいのだ。
友人の牧師がこんな詩を書いてくれた。さっそく曲をつけ、「これもさんびか」にエントリーすることにした。
本当に、すっかりからっぽになれば
不安さえもなくなり 創り主の恵みが
音を立て 流れる
イエスよ、空の器を いま満たして下さい
本当に、すっかりからっぽになれば
嘆きさえもなくなり 救い主の言葉が
底にまで とどろく
イエスよ、土の器を いま包んで下さい
本当に、すっかりからっぽになれば
誇るすべもなくなり 神の霊の力が
扉あけ 吹き込む
イエスよ、傷の器を いま用いて下さい
(荒瀬牧彦作詞・川上盾作曲)
「からっぽになることは、空しいことだ…」私たちはそうとらえてしまう。そして頑張ってしまい、でも頑張り切れないので不安になり、嘆きを口にし、自分のちっぽけな誇りにすがりついてしまう。けれども、不安や嘆きがある・プライドがあるというのは、まだ何かにしばみついているということでもある。まだ何か「自己愛=自分かわいさ」のようなものに執着してしまっている…その執着を取り去って、本当にすっかり空っぽになってごらん…するとそこに神の恵みがきっと与えられるから…そんなことをこの詩は示してくれる。
はたして、からっぽであることは空しいことなのだろうか?決してそうではない。私たちの信じる救い主は「からっぽの墓」から永遠の命の歩みを始められた方なのだから。からっぽは空しいだけのことではない。それは命を与える神の、見えない不思議な風の導きが「びゅうっと」吹き込むステージなのだから。