2014年12月7日(日)
ルカによる福音書1:5-25
前橋教会のクリスマスの飾りつけ(ヒバ・モミの天然素材!)もなされ、クリスマスの雰囲気が高まってきた。巷では教会よりもずい分早くからクリスマスの装飾が街を賑わせている。クリスマスは冬の祭りとして、もうすっかり日本にも定着した感がある。
しかし聖書が私たちに示すのは、クリスマスとは「祭りを祝えない人々」のところにもたらされた神の救いの訪れだということである。「わたしは祭りを祝えず苦しめられていた者を集める。」(ゼファニア3:18) これが長く救い主を待ち続けながらその願いをかなえられなかったユダヤ人たちに語られた神の言葉である。
ルカによる福音書の降誕物語は、幼子イエスの誕生に先立って、イエスの活動の道を備えたバプテスマのヨハネの誕生物語から始まっている。イエスの誕生が不思議な物語であったのと同様に、ヨハネの降誕譚も世にも不思議な物語であった。
ザカリアとエリサベトの夫婦。いずれも祭司の家系であり「主の掟をすべて守り、非の打ちどころのない」人々であったと記される。しかし彼らは子どもに恵まれなかった。子孫の繁栄が神の祝福のしるしととらえていたユダヤ人にとって、子どもが授からないことは大きな悲しみであり、エリサベト自身も「わたしの恥」(ルカ:1:25)という意識を抱いていた。抱かされていた。
正しく生きようとしているにも関わらず幸せから遠ざけられているという状況。それは信仰者にとって一つの危機である。過ち多い人の方がまだそういった状況を受け入れやすいと言えるかも知れない。「散々なことをやってきた報いです」と。世の中には、信仰を持つが故に抱く苦しみというものがあるのかも知れない。「神さま、どうしてなのですか!?」というつぶやきと共に。
ある日ザカリアは、神殿で香を炊く役割に選ばれる。一生に一度あるかという大仕事である。しかしその大切な役割を果たそうとしたその時に、天使が現れ、エリサベトの懐妊を告げる。「年老いた夫婦に神の導きにより子どもが与えられる」― それは創世記のアブラハム物語にも通じるモチーフである。
しかしザカリアはその予言の言葉を疑いをもって聞いた。そしてそのために口が利けなくなってしまったと記されている。ザカリアの内心はどうだったのだろう?天使の言葉を喜んで聞いたのだろうか?むしろ口が利けなくなったことによって、「あぁ、またか。こんな悲しみを味合わねばならないのか」といった思いを抱いたのではなかったか。ザカリアは決して不信仰ではない。むしろ、信仰深き人でさえ神の約束を疑わざるを得ない状況がそこにあったということだ。
このザカリアの姿の中に、何百年もの間神の救いを待ちながらそれが果たされない歴史を生きてきたユダヤ人の姿が象徴的に表されていると思う。捕囚の憂き目を味わい、諸外国の支配を受け、希望を抱きつつもその願いが破れ、その度に抱く絶望やあきらめ…。そんな「祭りを祝えぬ人々」に与えられたのが、クリスマス、すなわち救い主の到来という出来事なのである。
私たちの多くは今年も喜びの気持ちを抱いてクリスマスを迎える。そのこと自体が悪いというのではない。しかしその楽しい雰囲気に流されてしまって、祭りを祝えない人々の存在を忘れてしまってはならない。イエスが来られたのは、まさにそのような人々に生きることの喜びをお与えになるためだったのだから。
あるいはこんなことが言えるかも知れない。一人一人の人生の中にも、祭りを祝えないような辛い体験があったかも知れない。思い出したくない、忘れたいその経験 ― しかしそれを忘れ切ってしまってはならないと思う。なぜなら、その自分の気持ちを忘れることは、同じような辛い思いを抱いて生きる人のことからも目をそむけることにつながると思うからだ。
祭を祝えない人々。この世界にも、そして自分の心の中にもそんな人たちがいる。そのような心のあるところにこそ、クリスマスの小さな暖かい光が届くことを信じたい。