2020年6月21日(日)
Ⅰヨハネ2:22-29
いま世界には、人々を分断させ対立を煽り、それによって自分への支持を集めて権力を掌握したリーダーたちが大勢いる。彼らが権力を手にすることができたのは、その主張に賛同して選挙で投票した人が大勢いるということだ。経済の拡大、人々の大移動に反比例して、「自分たちファースト」みたいな気分が広がっているのを感じる。そしてコロナによる状況が、さらにそれに拍車をかけたように思われる。
けれども、分断し対立し互いに自分の正しさを主張し合う…それを続けていたのでは感染拡大を狙うウィルスの思うつぼだ。ウィルスはある意味「平等」。立場やメンツなどおかまいなしに、感染を拡大させる。本当に必要なのは、立場やメンツを超えて協力し合うことなのに、それとは正反対の行動をとってしまう…そんな人間の愚かさを思わずにはいられない。
しかし考えて見れば、分断し対立し互いに自分の正しさを主張し合う…それは私たち自身もついやってしまうことだ。ケンカや争いごとの原因は、大抵「自分が正しい」「相手が間違っている」という意識から生まれる。「正しくあろう・正しさを求めよう」ということが悪いわけではない。しかし「自分が正しい」と思い込み、返す刀で「あいつは間違っている」と決めつける所に衝突や軋轢が生じるのだ。自分には理解できない考えや振る舞いをする人であっても、その人にはそれなりの事情があるんだろう…そう考えてその相手と折り合うことができれば、世の中の争いごとの大半は収まるのではないか。
そんな思いを抱きながら、今日の聖書箇所を見て、思わずため息をついてしまった。そこにも対立する相手を非難する言葉が記されていたからである。その言葉とは、「反キリスト(原語ではアンチ・クリストス)」という言葉である。
ヨハネ文書の特色は二元論的思考だ。「光と闇」「霊と肉」といった対比によって、世界を二つに分けようとする傾向が強い。そして(間もなくやって来る)世の終わりが近づくと、「反キリスト」が現れると語り、「それらの人に惑わされるな!」と激しい口調で忠告する。「反キリスト」― それはヨハネ集団と対立する人々のことを想定していると考えられる。
しかし「アンチクライスト」とは、キリスト教を全否定する立場なのだろうか?そうではなく、批判しながらも「気になってる」という立場もあるのではないかと思う。私は「アンチ巨人ファン」だが、巨人が弱いとつまらない。憎たらしいくらい強い巨人が負けるのが面白いのだ。「アンチ」の立場の人の多くは、いろんな意味で「気になってる」のだ。
ジョン・レノンもアンチクライストと言われるが、しかしそれは権威主義化したキリスト教への批判であって、彼の目指した世界はイエスの語る神の国と通じるものがあると思う。「本当のキリストは、そんなもんじゃないだろ!」という意味でのアンチクライストもあるのではないか。
「反キリスト」という言葉を、現代の私たちが文脈も無視して引用し、自分とは考えの違う人を全否定する旗印としないように気を付けたい。これは難しい課題だ。どうすればいいのか。今日の箇所にヒントが記される。「御子のうちにとどまりなさい」という言葉だ。
私たちは弱い。間違いを犯してしまう。そんな私たちが自分の正しさに固執すると、道を誤ってしまう。だからその自分の正しさも含めて、善悪邪正の判断そのものをイエスにすべて委ねるのだ。そうすればおのずとなすべきわざが見えてくる。それはヨハネで繰り返し語られる「互いに愛し合う」という道だ。
「愛する」とは「好きになる」ということと必ずしもイコールではない。好きになれない相手でも愛することはできる。それはその相手を「こんなヤツはいらない」と言って切り捨てず、それでもその存在を大切に思い、認めればいいのだ。御子のうちにとどまる思い=イエスにすべてを委ねる思いが、私たちをその道に進ませてくれる。