2020年6月28日(日)
ヨハネ4:16-24
コロナウイルスの状況により、今年の夏の甲子園が戦後初の中止となった。「聖地」に立つことを夢見ていた高校球児、特に最終学年の3年生の無念を思うと、かける言葉も見つからない。作家の早見和真さんが「メディアや大人たちの言葉ではなく、自分の頭で考え抜いて『新しい言葉と考え』をひねり出し、甲子園を失った最後の夏と折り合いをつけてほしい」と記しておられた。同感である。
はるか昔、同じように聖地に立つことをあきらめなければならなかった人たちがいた。聖書の民、イスラエルである。バビロン捕囚という悲劇の歴史により、聖地から引き剥がされ、祈りの心が満たされない状況を50年以上にわたり耐えなければならなかった。いわば「甲子園中止」が50年続く事態である。神を固く信じてきた民にとって、痛恨の出来事であった。
しかしこの苦難の中でイスラエルは自らの信仰を見つめ直す「宗教改革」を行なった。自分たちの慢心や不信仰が捕囚の苦しみを招き寄せたのではないか…そう受けとめて信仰復興に取り組んだのである。旧約聖書の編纂もこの時期に行われたと言われている。
この時期、変化したものがもうひとつある。それはユダヤ人の「神観」である。それまでの「部族神」という神のイメージから、「天地万物の創造主」といったユニバーサルな神への信仰が培われてゆく。「唯一絶対神」への信仰である。
友人の古代史研究者は、このユダヤ人の神観を「モバイルできる神さま」と表現した。古代より人間の宗教は土地とのつながりが深かった。海洋民族・フェニキア人も、神を祀る場所は土地であり、はるばる航海を経て神を礼拝するために土地に帰って来る。しかし唯一絶対神は、土地に縛られない。どこにいても神に祈れるしつながれる。捕囚の経験がそのような信仰を生み出したのではないか、というのである。
聖地を慕う気持ちが人間にはある。しかし大切なのは「特別な場所」ではなく、ひとりひとりの「信じるこころ」だということ。それが聖書の示す信仰の歩みである。
サマリアの女性との対話の中で、イエスはこう言われる。「この山でも、エルサレムでもない所で父を礼拝する時が来る」。また「神は霊である」とも言われる。それは言い換えれば神さまは場所にしばられない方である、ということだ。「エルサレムにこだわるな。特別な場所ではなくても、神に祈ることはできる。」それがイエスの教えだ。
コロナウイルスの状況により、かつてのような「教会という場所に共に集まる礼拝」ができない状態が続いている。特に高齢者と若年層との交流を遠ざけねばならないことは、本当に残念でならない。しかし離れていてもつながっている、つながることができる…そのことを学んだ3ヶ月でもあったのではないか。
神は「霊」なのだ。特別な場所にこだわらず、離れていてもその距離などやすやすと飛び越えて、私たちの思いを一つに導いて下さる。そのことを信じよう。
♪ 讃美歌376(歌詞一部替え歌)
人の知恵と 言葉を超え
主はおられる この交わりに
招く声が 響きわたる
特別な場所ではなくても