『 ウケる言葉か、真実か 』

2020年9月13日(日)
エレミヤ28:6-16

預言者には二つのタイプがある。ひとつは希望の預言者。戦争・飢餓・疫病といった苦難の中で人々が失意に暮れている時、神の救いを語り希望を示す預言者の働き。もうひとつは裁きの預言者。人間が自分の力や都合を優先し、神に従う歩みを疎かにする時、これを批判し、神の裁きが下ることを語る。そんな働きだ。

エレミヤは後者のタイプ、特にバビロン捕囚の苦難を背負うイスラエルの悲哀を語ったので、「嘆きの預言者」「涙の預言者」とも呼ばれている。

エレミヤは「捕囚の苦しみはイスラエルの罪に対する神の罰である」と語る。敵であるはずのバビロン王・ネブカドネツァルを、その罰を与えるために「神から遣わされた僕」と呼び、さらに自分の首に軛をはめて預言の言葉を語った。自分の体で裁きを受ける人間の姿をさらし、人々にショックを与える方法で語るのである。

そんな預言がウケるわけがない。エレミヤはそのことをよく知っていた。だからそんな預言を語らせられる自分の運命を恨み、「私の生まれた日は呪われよ!」とも述べている。究極のネガティブ思考である。

そんなエレミヤの前に、別の預言者・ハナンヤが現れた。そしてエレミヤの軛を砕き、「今から2年のうちに神はネブカドネツァルを打ち破り、捕囚の民を元の場所に連れ戻す」と語った。

これはウケのいい、人々に安心と希望を与える言葉である。「昔も今も、預言者・祭司、牧師・神父といった立場の人たちは、そういう言葉を語らねばならない…」そんなことを思わせられる。しかしここにはひとつ、落とし穴がある。

ハナンヤが、本当に確信があって語ったのなら、それはそれでよい。しかし「エレミヤのようなネガティブなやり方ではダメだ。もっと人にウケる言葉を語らねばならないんだ…」そんな思いだけで語ったのならば、それは大きな問題だ。なぜならそこでは、神の御心よりも人間の願望が優先されているからである。

エレミヤは自分の言葉がウケないことを知っていた。しかし「それでも語らないワケにはいかない」という信念を抱いて、あえて厳しくネガティブな、しかし真実な言葉を語ったのだ。

果たして結果はどうなったか。ハナンヤの預言は外れ、彼はその年のうちに死んだ。そして捕囚は、50年以上の年月にわたって続くことになったのである。

「ウケる言葉か、真実か?」このことはコロナ状況の中にいる私たちにとっても大切な課題だ。「もう大丈夫、このまま回復するよ」と語るのがハナンヤ、「まだまだ大丈夫とは言えない、心配し続けなければならない」と語るのがエレミヤだ。危ないと思うのは、「安心したい・楽観したい」という人間の心理が支配的となり、「エレミヤは黙れ!」という声が大きくなることだ。

現状を正しく分析し、真実を見ようとすることよりも、人間の願望が優先される雰囲気が広がると、私たちは大きく間違ってしまうかも知れない。

聖書には温かい慰めの言葉も、厳しい戒めの言葉もある。ウケる言葉でなく、真実を聞くことを大切に求めよう。