『 主イエスよ、あなたは今どこに? 』

2020年11月22日(日)
ミカ2:12-13,マタイ25:31-40

毎年行なっていた収穫感謝CS合同礼拝が、コロナ状況により今年はできない。幼な子からお年寄りまで一堂に会する交流の時が持てないことは残念で仕方ない。その収穫感謝日は、教会暦における一年の最後の主日でもある。アドヴェントから教会暦は新しくなる。

今日の聖書箇所は、旧約も新約も終末に関する内容である。キリスト教の歴史観は、天地創造の初めから、終末の最後の審判に至る一直線の時の流れである。「終末論」というと何かおどろおどろしいものを感じる向きもあろうが、大切なのは「終わりを見つめて生きる」ということであろう。「今この時」の状況がいつまでも永遠に続くのではなく、必ず終わりが来る ― その時に及んでジタバタしないように、いつその時が来てもいいように備えて生きる…それが終末信仰である。

「世界の終わり」というと気宇壮大だが、ひとりひとりの人生に置き換えれば、「終わり」は誰にでも訪れる。すべての人に等しく訪れる死の時。その時に至るまでの日々を「二度とやってこない貴重な日々」ととらえ、その一瞬を大切に生きる…その積み重ねが「終わりに備えて生きる」ということである。

その日に備えて、私たちはどんな生き方を目指せばいいのだろうか。やり残したことや後悔がないようにやりたいことはやっておく、行きたいところがあれば行っておく、食べたいものがあれば食べる(Go toイート、Go toトラベル)…そんな道もあるだろう。しかしイエスが示されるのはそのような道ではない。

イエスが示すのは「飢えている人に食べさせ、渇いている人に飲ませ、旅人に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいる時に訪ねる」そんな道である。助けや支援を求めている人、その人に必要なものを差し出す振舞い…そんな隣人への愛を大切に生きることである。「これらの最も小さな者にしたのは私にしたことなのだ」とイエスは言われる。

この譬え話のポイントは、祝福を受けた人たちが気付かずに王(イエス)をもてなした、ということだと思う。「旅人をもてなしなさい。そうすることである人たちは気付かずに天使をもてなした(ヘブライ13:2)」。このことをすればご褒美として永遠の命をいただける…などと計算ずくで行なうのではなくて、分からずに、でもそうせざるを得ない行為として隣人に行う愛の施し。その振る舞い自体の豊かさの中に、永遠の命に至る歩みが宿されているとイエスは教えられる。

しかし私たちは自己中心的な存在である。なかなかそういうことはできない。そんな私たちにとって良い方法がある。それは出会う人の中にキリストを見る、ということである。「気付かずにもてなすのが大事だ、と言ったばかりじゃないか!」と思われるだろうか。しかしそれは見返りを求める打算で行なうことではない。「主イエスよ、あなたは今どこに?」と問いながら、日々を過ごしていくということである。

マザー・テレサは「死を待つ人々の家」の活動の中で、「ひとりひとりの中にキリストがおられる」そう思って向き合ったという。その思いが、あの温かくて強い活動を支えたのだ。「主イエスよ、あなたは今どこに?」という問いを抱きつつ、隣人への愛を生きる。その生き方の豊かさの中に本当の幸せがある…そのことに気付けたならば、いつ終末が来ようともすべてを神に委ねることができるのだ。