『 救いは近づいている 』

2020年11月29日(日)
イザヤ2:1-5,ローマ13:8-14

洗礼を受け、クリスチャンになることを「救われた」と表現する人たちがいる。このような表現が慣用句になっている教派もある。「私が救われたのは、悩み多き20代の頃でした。」― これは「私が洗礼を受けたのは20代だった」という意味である。イエス・キリストを信じることによって人生の喜びを知り、罪の赦しを実感したことを「救われる」と受けとめておられるのであろう。その心情を否定するものではない。

しかしそれをひっくり返した表現で、洗礼を受けていないことを「救われていない」という言い方をする人がいる。「ウチの主人のためにずっと祈っているのだけど、まだ主人は救われていないんです」「わが家の息子はCSにも通ってたのに、まだ救われていないんです」…こういう表現を聞くと「その言い方は何とかならんかなー」と思ってしまう。その人が意見を言えるような関係の人であったら、ついこんな風に返してしまう。「それは『救われていない』のではなくて、『救われていることに気付いていない』だけなのではないですか」と。

洗礼を受ければ救われる、受けなければ救われない…ということになると、人間の側の行為が決め手になってしまう。そうではなくて、私たちの行為があるかないかということに先立って、まずイエス・キリストが遣わされ、救いが与えられたのではないかと思うのだ。その「救いが与えられている」ことに気付き、信じて受け入れる…洗礼とはそのような感謝の思いで受けるものであろう。

では信じない人・洗礼を受けない人はどうなるのか?別にどうもならない。「信じて洗礼を受けないと救われない。地獄の火で焼かれる」などと脅して無理やり信じさせるのではなく、自ら主体的に出会い自発的に信じる…それが大切なのだと思う。

今日の箇所でパウロは「救いは近づいている」と記す。ここで言う「救い」とはなんであろうか?パウロにとってそれは「終末」と結びついている。「間もなくやって来る終わりの時、信じる者は永遠の命に至る『救い』が与えられる」…パウロの手紙にはあちこちにそのような記述がある。だが、それだと結局「洗礼を受けたクリスチャンだけが救われる」ということになってしまう。

このあとパウロは、「善き行いと悪しき行い」を並べ、救われたいならそれにふさわしい生き方をせよ、と勧めている。キリスト教最大の伝道者であるパウロだが、どこかとらえ違いをしていると思えてしまう(偉そうだが)。「イエスが教えられたのはそういうことじゃないだろう!」と思ってしまうのだ。

洗礼を受けて善い行いをする人になれたら、すなわち罪人でなくなったら救われる、というのではない。罪人だって救われる、罪人こそ救われる…罪人のまま救われる。それがイエスの示された道だ。そのことに気付き感謝する思いが、洗礼を受ける思いに至らせ、「善き行い」を選び取らせる。順序が逆なのだ。「救いが近づいている」という言葉は、神によって既に与えられている救いに、私たちが気付く時が近づいている…そうとらえたいと思う。

アドヴェント。救い主の到来を「私たちが待つ季節」である。しかしもう一つの意味での「待つ季節」でもある。「イエス・キリストの到来によって既に与えられた救い」というものに、私たちが気付くことを「神さまが待っておられる季節」なのだ。