『 大工の息子、世を贖う 』

2020年12月6日(日)
マタイ13:53-58

人がその人格を形成していくとき、何が大きな要因になっているだろうか。いろんな要素が考えられるが、その人がどんな仕事(職業)についているかというのが、結構大きな影響があるのではないかと思う。マルクスは「労働や階級が自己意識を決定する」と言った。確かに漁師、農夫、教師、銀行員、法曹関係者など、その仕事に見合った人間性というものがある。

ふと、イエスはその人格をどこで培われたのだろうか?と考えた。それは、大工であった父・ヨセフの仕事を手伝いながらだったのではないだろうか。母マリアと違い、父ヨセフは誕生物語以外には登場しない。恐らく早くに亡くなって、その後イエスが大工の仕事を引き継いでいたのではないかと思う。

「大工」といっても大きな土木仕事ではなく、他人の家の修理や家具の修復のために、それぞれの家を訪ねて、その中でする仕事だったと思われる。世間話をしたり、律法学者への愚痴を聞いたり、庶民の貧しくも慎ましい生活の本音を聞きながらの仕事の日々。イエスのあの温かな人格、いつくしみ深い優しさ、悩める者を愛おしみ、権威を振りかざす人には厳しく迫る…その感性や人格は、「象牙の塔」のような学者の研究室ではなく、庶民の日常の暮らしの中で培われていったものなのではないだろうか。

今日の箇所は、イエスが故郷のガリラヤに戻り、神の国の宣教を始められた時のエピソードである。イエスが小難しい論理ではなく、譬えを通して分かりやすく神の国の福音を語られるのを聞いて、故郷の人たちは言った。「何だか偉くなったもんだな!大工の息子がよぅ!」こういう人たちの前で宣教することは、さすがのイエスでもやりにくかったのだろう。「預言者は故郷では敬われないものだ」と言われている。

しかし私はこの「大工の息子ではないか」という言葉に、ある種の真実を感じるのである。人々を救い、世の罪を贖うのは、律法学者のようなエリートのしごとではなく、武勇に優れた歴戦の強者でもなく、庶民の中に生まれた人なのだ…そんなメッセージを受けとめたいと思う。

ユダヤには「メシアはダビデの家系から生まれる」という言い伝えがあった。ダビデ王朝時代に国力のピークを誇っていた時代へのノスタルジーから生まれた信仰である。ところが、イエスもダビデの家系であったにも関わらず、それをひけらかすことはなく、むしろ「メシア=ダビデの子」という考え方を笑い飛ばしておられる。(マルコ12:35-37) 家柄にことさらこだわるような権威主義的な発想から、イエスは縁遠い人であったのだ。

「大工の息子ではないか」と言われて、イエスは苦笑いしながらも、まんざらでもなかったのではないか。後にエルサレムで、ろばにまたがって都に向かうイエスのことを「ホサナ!ダビデの子!」と歓呼の声で迎えておきながら、数日後には「十字架につけろ!」と叫ぶ群衆の声に比べるならば。

エリートの律法学者と比較すれば、イエスは大工の息子、庶民の中の庶民である。その大工の息子が、世を贖うのである。