2020年12月13日(日)
ルカによる福音書1:26-37
「天啓」というものを受けたことがあるだろうか。自分の中から出てきたというより、外からやって来て、自分の心をゆり動かし、ある行動・方向へと突き動かしてくれるような「声」である。「どうしてあの時あんな行動をとったのだろう?」とあとでふり返る行為、特に人生の岐路や大事な選択に際してそう思うことがある。その時私たちは「天啓」を受けていると言えるのではないか。
村上春樹は神宮球場で野球を見ていた時に「小説を書こう」と思いを定めたという。「その時空から何かが静かに舞い降りて来て、僕はそれを確かに受け取ったのだった。」まさに「天啓」である。
大作家と比べるのは畏れ多いが、私も自分の人生の岐路において、同じような経験がある。神学校を卒業し、3年間の伝道師としての働きを終えて、主任として新たな教会に赴任しようとしていた私にある教会が紹介された。「どこでも行きます!」などと威勢よく手を挙げていたにも関わらず、最初はそのお話に対し正直言って気が進まなかった。断ろうと思い手紙まで書いたのだが、ポストに投函する直前に「この手紙を出したらアカンのとちゃうか?」という声を聞いた気がした。寸前で思い止まり、結局招聘をお受けすることにした。そうしたらその赴任先で自分の人生を変えるような出会いがあった。あの時あの手紙を出していたら、「歌う牧師」にはならなかったかも知れない。これもある種の「天啓」の体験であろう。
今日の聖書箇所は、「おとめマリア」に告げられた「受胎告知」の場面である。マリアも「天啓」を受けたひとりだ。ヨセフのいいなずけ(結婚前)であったマリアを天使が訪ね、マリアが救い主となる幼な子を身ごもったことを告げる。マリアは戸惑い、「どうしてそのようなことがありましょうか」と反応する。彼女は結婚前だったのだ。
天使は「その幼な子は聖霊によって宿ったのだ」と告げる。いわゆる「処女降誕」のモチーフである。科学の発達した現代に生きる私たちは「そんなことはあり得ない」と反応するが、古代においては偉大な人物が処女降誕に生まれるという伝説は、しばしば物語られていた(例えば、プラトン)。
しかしマリアはなおも戸惑い、そのお告げを拒絶したのではないか。結婚前の女性が、婚約相手以外の子どもを身ごもることは「姦淫の罪」にあたり、死罪にも相当することであったのだ。「なにが『おめでとう』だ!こっちはそのために裁きを受け、殺されるかも知れないんだぞ!」
すると天使はマリアの親戚・エリサベトの懐妊の事例を告げる。「不妊の女」と言われていたのに、神の力で子どもを授かっていたのだ。「神にできないことは何一つない」その言葉を聞いて、マリアは言葉を返した。「お言葉通りこの身になりますように(Let it be=みこころのままに)。」
マリアの最初の拒絶「どうしてそんなことが…」という思いが、「お言葉通り…」という受容へと変わっていくのだが、それはネガティブがポジティブに変わるような、180度の心の変化だったのだろうか?「天啓」を受けた人は、そのように心を入れ替えなければいけないのだろうか?
30数年前、ポストへの手紙の投函を思い止まった20代の川上盾は、そんなに簡単に心を入れ替えることはできなかった。「これでよかったのかなー」という後悔の念を引きずりつつその後も過ごしていた。野球場で小説家への転身を決意した村上春樹も、その後の道のりを決してポジティブな思いだけでグイグイ進めたわけではなかっただろう。
マリアも180度スッキリと心を替えられたというのではなく、むしろ後悔や戸惑いを抱えたまま、その定めを受け入れていったのではないか。後ろ髪引かれるような思いを引きずりながら、それでも示された方向へ進まねばならない…そんな揺れ動く思いの引き出される出来事…「天啓を受ける」とはそういう体験なのではないだろうか。
そんな揺れる心を抱く人に、そっと寄り添い、悩みを受けとめ、背中を押してくれる言葉がある。「みこころのままに(Let it be)」。それは「喜んでその道を進みます!」という全面受容の言葉というよりも、複雑な思いを抱えながらも「神のなさること」に身をゆだねる言葉である。そんな思いを抱えたひとりの市井の女性から、救い主が生まれるのである。