『 掌 (てのひら) が覚悟を導く 』

2021年1月10日(日)
マタイによる福音書3:13-17

洗礼を受けた人へのあいさつとして「おめでとう」という言葉がふさわしいのかどうか、考えることがある。ひとりの信仰の仲間が加えられた喜びが語らせるのだろうが、信仰を持つことによって悩みが深まることもある。イエスは「十字架を背負って私に従え」と語られた。そのような決断をした人に対しては、「おめでとう」よりは「ようこそ!共に歩みましょう。」という言葉の方が相応しい気がする。

洗礼において、クリスチャンとしての新しい歩みが始まる。その時、司式者は頭に手を置いて祈る。このことが大切だと思う。イエスは子どもたちを受け入れ、頭に手を置いて祝福された。初代教会の宣教者たちは、頭に手を置く祈りによって送り出されていった(按手式)。頭に手を置いて祈る…それは祝福と派遣を表すふるまいなのだ。

今日の箇所は旧約・新約とも、「按手」に関する箇所である。旧約はダビデの任命の場面。預言者サムエルは、エッサイの息子のうち、屈強な兄たちではなく、末っ子のまだ少年のダビデを選び、頭に油を注いでイスラエル次代の王として任命した。王となるには「自分がなりたいから、なる!」という方法ではなく、誰か他の人から任命されるという手続きが必要なのである。

新約はイエスの受洗の場面である。「神の子であり、救い主であるイエスが、どうして罪の許しと贖いの洗礼を受けなければならないのか!?」といぶかる人もいるだろう。それはイエスから洗礼の申し出を受けたヨハネにとっても同様であったのだろう。「どうして私のような者から?」とためらう様子が記されている。

しかしそれでもイエスは受洗を願い出る。これから厳しい宣教の働きに臨むイエスにとって、「自分自身の決意」に加えて、誰か「他者の手」によって進むべき道に押し出される体験が必要だったということではないだろうか。

私自身、自分の按手式の写真を時々眺めることがある。それは迷った時、行き詰った時、ひよりそうになる時である。「本当はこっちに進まねばならないけど、その勇気が持てない…」そんな時、この写真を見ると、手を置いてくれた先輩牧師たちの声が聞こえてくるような気がするのである。「逃げずにがんばろう!ケツもったるで(尻拭いはしてやる、という意味の関西弁)」と。

看護師になる人の戴帽式なども同じような体験だろう。ある医科大学の学長は「君たちがこれから身に着ける白衣は、着る者に小さな覚悟を強います。白衣は君たちに誇りを持つこと、そして厳しさに耐えることを求めています」と語られた。覚悟や誇り、厳しさに耐える力…私たちはそれを自分の心の中で抱き、育てていかねばならない。しかし人間はそんなに強くない。自分の意志だけでは覚悟や決意を強く保てない…そんな時「自分以外の人」から与えられたナースキャップや白衣が、その覚悟を導いてくれるのである。

キリスト者にとって、洗礼とはそういうものではないだろうか。イエスが示された道、すなわち自分を愛するように隣人を愛する道、時には自分をすて十字架を追って歩まねばならない道、そんな歩みへと向かう覚悟を導くもの…祝福と派遣の祈りと共に頭に置かれた手、その掌が覚悟を導くのである。