『 隔ての壁を超えて 』

2021年2月7日(日)
マタイによる福音書15:21-28

教会は「ナザレのイエスこそキリスト=救い主だ」と信じる人々の群れである。ではイエスは、誰にとっての救い主なのだろうか。「そんなのは決まってる。全世界すべての人の救い主だ!」と私たちは考える。しかし新約聖書の時代の人はそうは考えなかった。キリスト=メシヤとは、あくまでもユダヤ人にとっての救い主だったのだ。

ではイエスはどう考えられただろうか?貧しい人・社会から排除われていた人を大切にして生きられたイエス。そんなイエスはユダヤ人に限らず、異邦人をも含む全ての人々を救おうとされたに違いない…それが当然だと私たちは考えるが、必ずしもそうとは言い切れないのかも知れない。そんなことを今日の聖書の箇所は示している。

イエスの元にひとりのカナンの女が訪ね、病気の娘の癒しを願い出た。「カナン人」とはユダヤ人から見れば異邦人であり、ある意味敵対する相手であった。「私を憐れんで下さい」と懇願する女性を、イエスは最初は無視しようとし、しつこく願い出てくるとこう言われた。「私はイスラエルの失われた羊のところにしか遣わされていない」。

ひとりの人間に関われる範囲は限られる。どこかに線を引かざるを得ない…私たちはしばしばそのような言い訳をして、自分の関わる相手を限定しようとしてしまう。そんな心の狭さがイエスにもあったということなのだろうか?(これについては別の解釈もある。2017年2月19日の礼拝メッセージでその解釈を紹介しているので、ホームページでご覧下さい。)マタイの記事を読む限り、イエスは癒しを与える対象をユダヤ人に限定していた…そうとしかとらえようがない。

一度は断られたにも関わらず、女はさらに願い出る。するとイエスは言われた。「こどもたちのパンを取って、小犬にやってはいけない」。これも受けとめようによってはひどい言葉だ。異邦人の存在を小犬に譬えている。もし自分がその場に居合わせたなら、空気が凍る感じを抱いたかも知れない。

しかしその氷を溶かすものが示される。彼女がイエスに返した言葉だ。「主よ、ごもっともです。けれども小犬だって食卓から落ちるパン屑はいただきます(あなたの救いがイスラエルの失われた人々に向けられたものであることはよく存じております。それを全部私に下さい、とは申しません。しかし、こぼれ落ちるパン屑くらいの憐れみを、私にいただくわけにはいきませんか)。」イエスのつれない言葉に対して、彼女が怒って席と立ったならば、交渉は決裂しただろう。しかし彼女はとっさの機転とユーモアでそのように返したのである。

差別や偏見を乗り越える原動力は「怒り」である。しかし怒りをただ相手にぶつけるだけでは、対立は越えられない。もう少し別の力、たとえばユーモアが必要だ。彼女のユーモアがイエスの心を開いた。そして娘の癒しの道が開かれたのだ。

「イエス・キリストは異邦人を含む、全世界の人々の救い主である。」このような福音理解を世に広めたのはパウロの功績である。しかしそのような福音理解の最初の始まりは、このカナンの女とイエスとの対話にあるのかも知れない。そこに隔ての壁を超えるものとして、ひとつのユーモアが示されていることに希望を抱かされる。

世界は今、新たな分断と対立の時代を迎えていると言われる。偏見や差別に対して正しく怒りつつ、ユーモアの心を忘れずにいたい。対立する相手との間でも、ののしり合いけなし合うのではなく、いつか共に笑える日が来ることを信じて、隔ての壁を超えて歩んでいきたい。